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2009年5月

2009年5月31日 (日)

高田 純 『中国の核実験 英語/ウイグル語翻訳版』

 

Takadajunkaku_2

高田 純 『中国の核実験 英語/ウイグル語翻訳版』(医療科学社,2009年,2300円)

高田純札幌医科大学教授が「高田純の放射線防護学入門シリーズ」で出版した『中国の核実験』の英語とウイグル語への翻訳版である。中国が新疆ウイグル自治共和国のタクラマカン沙漠のロプノール核実験場で行ってきた核実験がいかに非人道的なことであるかを科学的データに基づいて明らかにしている。

タクラマカンに生活するウイグル人に白血病が多くでている。放射能による被曝の影響であることは明らかである。数多くの核実験が行われてきたロプロ-ル核実験場は非常に危険な場所である。中国政府は放射能の危険性について,漢族にもウイグル人にも全く情報を提供していない。自分に都合の悪いことに口をつぐむのは中国共産党の常套手段である。

海外でもタクラマカン沙漠での核実験の実態については知られていない。高田教授は中国の核実験の非人道性を科学的に警鐘を鳴らすため『中国の核実験』を著し,もっと世界とウイグル人に実態を知ってもらいたく,翻訳版を出版した。

ウイグル語版は現行のアラブ文字によるウイグル語表記ではなく,ローマ字表記である。高田教授が望むように,新疆のウイグル人たちが高田教授の翻訳版を自由に読むことができるのだろうか。

中国共産党や中国政府が科学的なデータに基づいた高田教授の著作を没収するようなことがあるならば,この本には真実が書かれているという,お墨付きを与えてくれることになろう。中国側に反論があるならば,科学的データに基づいて反論すればいいと思う。それが科学だと思う。それが出来ないなら,中国の核実験の非人道性を覆い隠すことはできない。

NHKは新シルクロード番組でロプノールなどタクラマカン沙漠を放映したが,撮影者は放射能の危険性を知りながら撮影したのであろうか。新シルクロードは,NHKが意図し視聴者に思わせようとしているような楽園の場所ではない。

新疆ウイグル自治区には多くの日本人観光客が訪れている。タクラマカン沙漠にも出かけている。中国の核実験による残留放射能は,日本人にとっても他人事ではない。

2009年5月30日 (土)

イブラヒムと頭山満

Ibrahimtoyama 写真はイブラヒムと頭山満の写真

汎イスラム主義者のアブデュルレシト・イブラヒムとアジア主義者の頭山満の出会いは明治末期であった。イブラヒムは昭和8年に再来日し,昭和19年に東京で没する。イブラヒムと頭山満はいろいろな会合で出会っている。イブラヒムはアラビア語,ロシア語,タタール語,トルコ語を話したが,日本語は片言であった。頭山は外国語を話さなかった。この二人の会話は何語の通訳を介して行われたのであろうか。

2009年5月29日 (金)

朝鮮戦争とトルコ軍

Koreturk写真は国連軍として朝鮮半島に派兵されたトルコ軍兵士が休暇で韓国の町中を散歩している姿。

朝鮮戦争が勃発すると,北朝鮮軍の勢いは米軍の予想を超えて破竹の勢いで南下し,釜山近郊まで米軍が追い詰められた。国連は国連軍の朝鮮派遣する決議をした。この決議に基づき,マッカーサー元帥が司令官とり,国連軍が派遣されることとなった。

マッカーサー元帥率いる米軍は仁川上陸を敢行し反攻を開始し,北朝鮮軍を北へ追い詰めていった。米国はトルコのメンデレス首相にトルコ軍の朝鮮派兵を求めた。メンデレス首相も米国の要請を受諾し,トルコ軍を国連軍として派兵を決定した。トルコが米国に次いで2番目の派兵であった。トルコは1個旅団(5090名)を派遣した。後に,トルコ大統領になるケナン・エヴレンも陸軍大尉として従軍している。

中国人民義勇軍が鴨緑江を越えて北朝鮮軍に加わると,戦争の状況も国連軍にとって一進一退の状況になっていった。トルコ軍は朝鮮戦争で奮戦したが,斃れた将兵も多かった。負傷した将兵は日本に後送され,九州大学病院や聖路加病院(占領下では,接収され《極東米軍中央病院》と呼称)で治療を受けた。日本で一時滞在したトルコ軍の将兵たちはトルコ帰国後,日本の様子を伝えた。彼らはトルコの一般の人々の間での親日感情を醸成するのに貢献している。

トルコは第2次世界大戦中,中立を保って戦争の被害を直接受けることはなかったが,1950年代のトルコは経済的に豊かではなかった。メンデレス政権が対米関係を重視して出兵を決定した。このトルコ軍の派遣はトルコ政府にとって重い負担であった。多くの戦死者や負傷者を出した,トルコの国連軍参加が西側諸国で評価された。これがトルコのNATO加盟へとつながっていく。トルコ人の流した血の代償であった。

韓国は,朝鮮半島で命を失ったトルコ軍将兵に感謝し,アンカラ中央駅前の公園にトルコ・韓国の友好の塔を建立している。

2009年5月28日 (木)

アゼルバイジャン共和国独立記念日

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5月288日は南コーカサスのアゼルバイジャン共和国の独立記念日。この記念日は,1991年のソ連崩壊により,アゼルバイジャンが独立を「回復」し,アゼルバイジャン共和国が独立記念日として制定された。この日はソ連から独立の日ではない。1918年5月28日,アゼルバイジャン民主共和国が独立をゲンジェで宣言した。この共和国はイスラム世界で最初の共和国であった。アゼルバイジャン民主共和国は,三色旗の国旗(現在も使用)を制定し,紙幣を発行するなど独立国家の体裁を整えていた。しかし,この共和国は長くは続かなかった。1920年4月,赤軍がバクーに進駐して崩壊した。23ヶ月という短期間であった。

その後のアゼルバイジャンは,「アゼルバイジャン社会主義人民共和国」としてソ連邦内の一民族共和国となった。1930年代,スターリンによる大粛清はアゼルバイジャンにも及んだ。多くのアゼルバイジャンの知識人が殺害され,一部はシベリア強制収容所に流刑された。粛清された知識人の中には,アゼルバイジャン民主共和国の建国や運営も関わった人々も含まれていた。その数は多く,当時のアゼルバイジャンの指導的な立場にあった学者はほぼいなくなってしまった。粛清によるアゼルバイジャンでの人的被害はその後の発展に悪影響を及ぼしている。

ソ連の政策により,アゼルバイジャンでは意図的に「アゼルバイジャン民主共和国」の歴史を抹消していた。この共和国に関して,一般のアゼルバイジャン人はほどんど知らないという状態になっていた。しかし,ゴルバチョフが始めたペレストロイカやグラスノスチは,アゼルバイジャン人が忘れていた民族意識を覚醒させた。それまで禁止され,忘れ去られていたアゼルバイジャン民主共和国の「三色旗」が民族の統一のシンボルとして再登場した。

1991年にアゼルバイジャン共和国が独立を回復すると,独立記念日はソ連から独立の日を選ぶのではなく,ソ連に独立を奪われた民主共和国の独立記念日を選んだのであった。

アゼルバイジャン民主共和国評議会議長のラスザーデは,国家の独立を国旗に託して,“Bir kərə yüksələn bayraq bir daha enməz(一度掲げられた旗は二度と降ろさず)”と述べた。しかし,その共和国は大国ソ連・ロシアの介入により短命に終わった。21世紀,ロシアのグルジア侵攻を見て分かるように,南コーカサスの独立は大国ロシアの動きに大いに左右されている。この現状は100年前と同じである。国際社会の良心は,小国が独立を続けるためにもロシアの動向を注視していく必要があるであろう。

2009年5月27日 (水)

中央アジア研究会 『中央アジア叢書』

Chuoasiakenkyuukai 中央アジア研究会 『中央アジア叢書』(第1輯~第6輯)

中央アジア研究会とういう研究会が,『中央アジア叢書』というシリーズで昭和14年から15年まで合計6冊の小冊子を出版している。これらは国立国会図書館に収蔵されている。

第1輯 中央アジア研究会編 中央アジアの歴史的意義
第2輯 中央アジア研究会編 中亜民族共和国事情/卓井 佑著 カザクスタン紀行
第3輯 三橋冨治男著 新旧ロシア中亜政策一班/今岡十一郎著 中央アジアの民族問題
第4輯 中央アジア研究会編 高架索の概観:コーカサス旅行談
第5輯 徳光三著 アフガニスタンの農業事情
第6輯 内藤智秀著 西アジア文化/田辺宗夫著 中央アジアと英露

これら小冊子の出版場所は代々木上原1111番地となっている。著者の三橋冨治男,今岡十一郎は,当時外務省調査部に籍を置いていることから,外務省関係者による研究なのであろうか。この研究会は中央アジアが対ソ政策か,対イスラム対策がらみの研究会なのだろうか,興味あるところだ。なぜ,この時期に中央アジアなのであろうか。昭和12年の日中戦争開戦以後,対イスラム政策が策定されていき,外務省に「回教問題研究会」が開かれている。中央アジアも対中央アジア政策を準備するための研究会かもしれない。昭和16年に対米戦争が開戦すると,中央アジアに対する研究の余裕がなくなったのか,その後『アジア叢書書』は発行されず,その後の研究会の動向についも不明である。

戦後,三橋冨治男は千葉大学教授としてオスマン史の研究を続け,彼の弟子の永田雄三(元明治大学教授),設樂國廣(立教大学教授)がオスマン史研究者として育っている。戦中の三橋は外務省に籍を置いていたからであろうか,中央アジアのトルコ系民族の動向を追っていた。残念ながら戦時中の活動について語らずに逝ってしまった。ハンガリー研究者の今岡十一郎は戦後在野の研究者としてハンガリー語・ハンガリー文化の研究を続けているが,中央アジアと関係することはなかった。今岡も戦前のハンガリーでの活動については語っても,《ツラン運動》も含めて戦中の活動に関して語ることはなかった。

2009年5月26日 (火)

神戸モスク

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写真は出来て間もない頃の神戸モスク。

神戸は幕末開港以来,多くの外国人が居住し,貿易で繁栄してきた。貿易に従事した人々の中には,インド(当時は英領植民地下)からやってきたイスラム教徒たちもいた。篤信家のインド人たちが醵金してモスクを建設している。神戸モスクは,日本で一番歴史のあるモスクで1935 (昭和10)年に竣工している。

1938(昭和13)年に代々木上原に建設された東京モスクが在日イスラム教徒のみならず,政財界からの寄付金を募って建設された。そして,極めて政治的な色彩を帯びていたのとは対照的に,神戸モスクは在日イスラム教徒(主にインド系)に建設されたモスクであった。

このモスクはいまでも神戸在住のインド人,パキスタン人,インドネシア人などによって礼拝の場所として利用されている。その隣の建物では彼らの子弟たちにイスラムの教えが教えらている。神戸モスクはいまでもイスラム教徒のシンボルであり続けている。

昭和10年の時,モスクの前面に電線が見えるが,現在でも同じである。神戸市が観光客を呼び寄せるために景観を重視するなら,この電線は地下化したほうがいいと思われる。

2009年5月25日 (月)

日露戦争と親日老人

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日露戦争が日本の勝利に終わると,日本はロシアや欧州列強の圧迫下に生活していたアジアの人々に希望を与えた。日本を直接知らないが,日本への片思いが親日家を誕生させた時代があった。

大日本回教協会の機関誌『回教世界』(昭和14年6月号)の彙報に,「テヘランの親日老人」が紹介されている。

「…テヘランの都に日露戦争後今に渝らぬ親日家ガイム・マグハミ氏は一人住んでいることは面白い。住居が隙間なく日本色一色に彩られているのには驚喜した応接室の壁には明治天皇,今上天皇の御真影を始め奉り東郷元帥,乃木大将の写真,日露戦争絵巻,日の丸の旗,東京の絵葉書などを一杯に飾りつけ,飾壇には扇子,漆器の手函,人形,写真帳,煙草入れ等々よくもこれだけ集めたものだ。
 彼は日露戦争後急に日本が好きになって73歳の今日迄一貫して日本贔屓で押通した。彼が目下書いている日露戦争史は日露戦争両軍配置の詳細な地図迄入れて中々大部の書物である。日本人が来れば必ず訪問しるし又この界隈では誰も彼の名前を呼ぶ者はなく,日本通の爺さんで通って居るというから愉快だ。」

 
この親日老人は日露戦争から30年間も親日を続けているから筋金いりといえるであろう。このような老人がでるぐらい,日露戦争が与えた影響は大きく,日本はアジアの希望の星であった。この老人が憧れた日本がこの雑誌出版から数年にして壊滅的な損害を受けたことを知るまで長生きしたのであろうか。この報道以外,この老人に関してその後全くなく,彼の動静は不明である。

この老人が執筆していたペルシア語の日露戦争史はその後出版されたかどうか,筆者は寡聞にして不明である。出版されていないならば,いまでも遺族に原稿が残されているのであろうか。

2009年5月24日 (日)

昭和13年のイエメン王子訪日を歓迎するイブラヒム

Ibrahim 小松久男教授の著作『イブラヒム,日本への旅ーロシア・オスマン帝国・日本』(刀水書房)は,アブデュルレシト・イブラヒムの生涯について要領よくまとめている。

イブラヒムは日本の対イスラーム政策のシンボルであった。昭和13(1938)年は代々木上原のモスクが完成し,それを祝賀するためイエメン王子が訪日している。国策が反映しているにせよ,官民のイスラム熱は熱かった。この年,大日本回教協会も設立されている。イブラムは昭和19(1944)年に波瀾万丈の生涯を東京で天寿を全うしている。イブラヒムに歓迎されたイエメン王子のサイフル・イスラーム・フセイン殿下は,戦後の1949年に父王イマーム・ヤヒヤとともに殺害されている。

2009年5月23日 (土)

バクーのゾルゲ記念碑

「Sorge-Baku.pdf」をダウンロード

リヒャルト・ゾルゲの諜報活動は,現代日本でも関心が持たれ,映画やドラマになっている。彼はアゼルバイジャンのバクーでドイツ人として誕生している。ソ連時代は英雄であったが,いまのアゼルバイジャン人には全く関心の対象にはなっていない。バクーでゾルゲのことを聞いても,ほとんどの人が知らないと返事をしてくる。

ソ連時代に造られたゾルゲを記念するモニュメントが残されている。その横を通るアゼルバイジャン人は全く関心を示していない。この記念碑の前で記念撮影するのは,私のような日本人ぐらいのようだ。

2009年5月22日 (金)

羅紗売りのタタール人

Tatargyosho 流通の発達した現在では,行商という言葉は死語になっている。農村部で各家庭が自動車を持ち,スーパーやホームセンターに出かけ気軽に買い物にでかけている。昭和30年代までは今のように流通が発達しておらず,行商人がいろいろな品物を携えて戸別訪問しながら商売をしていた。そういった姿は首都圏からは見かけなくなって久しい。

かつて,外国人が行商人となって全国津々浦々を歩き回っていた時代があった。彼らは,ロシア革命の亡命者で,トルコ系のタタール人とよばれる人たちであった。昭和初期にまだ洋服が簡単に手に入らない時代,洋服生地や既製服を売り歩いていた。戦前の農村部で外国人を見かけることはなく,外国人の行商人が玄関に現れると,「留守です」と言って断ろうとした。まだ日本語がたどたどしかったタタール人たちは,「ルスではありません。トルコです」と話しかけたそうです。「ルス」はトルコ語やタタール語でロシア人を意味していた。このような笑い話が在日タタール人の間で伝わっている。

タタール人たちは「羅紗売りのタタール人,トルコ人」として次第に知られるようになった。彼らは実直な商売の姿から,各地で信用を得るようなり,お得意さんを獲得していった。商売では実直でなければならなかった。何の後ろ盾もなく,無国籍の彼らは真剣に働き日銭を稼ぎ,東京,神戸,名古屋などにすむ家族を養わなければならなかった。市井にすむタタール人たちと一般庶民との関係は良好で,タタール人がロシア革命の亡命者であることに同情していた。今は亡きロイ・ジェームズ(彼もタタール人)が白人の顔で東京下町言葉を話したも下町で育ったからであった。

羅紗売りのタタール人たちの多くは,1950年代以降家族と一緒にトルコに移住していった。日本に残った数少ないタタール人も戦後社会が安定するにつれ,別の職業に転じていった。そのようなタタール人は日活や東映の映画に不良外人,悪役や軍人の役でスクリーンに登場している。

2009年5月21日 (木)

 大島直政  『ケマル・パシャ伝』(新潮社)

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大島直政 『ケマル・パシャ伝』(新潮選書,新潮社,1984年)

故大島直政(1942-1995)氏は,トルコに関する多くの書籍を残している。トルコに関することをまだまだ書いてもらいたかったが,残念ながら50代で病没された。『ケマル・パシャ伝』は版を重ねたが,著者の死亡により絶版となっている。古本屋で見かけるので,入手は難しくないであろう。

トルコ初代大統領ムスタファ・ケマル・アタテュルクの生涯が要領よくまとめられている。著者がトルコに留学していた頃,トルコの独立戦争に参加した兵士がまだ生きていた。それら名もない市民たちから,トルコがいかに独立を勝ち取ったかを聞いている。いまではこういう聞き取りは不可能であり,庶民の生の声を聞いていたことに価値がある。トルコでは彼を激賞していて,客観的・中立的にに描くのが難しいが,大島は中立的・客観的に彼の生涯を書こうと努力している。

1923年のトルコが独立しいるが,その前の独立戦争は第一次世界大戦のオスマン帝国の敗戦と欧州列強の占領に反対する武力闘争から始まっている。それを指揮したのがムスタファ・ケマル将軍であった。彼のような強靱な意志を貫き通す人物は,日本からはでないであろう。このとき,トルコが勝利していなかったら,トルコは英・仏・伊・希によって分割され,トルコ人の国家はアナトリア内部の小さな国となっていただろう。日露戦争で日本はアジアなどの非白人に与えた影響は大きかったが,ムスタファ・ケマル将軍は中東の希望の星となった。エジプトなど英仏の植民地支配にあった中東の人々は,生まれてくる子供にケマルという名前をつけたという。

欧州列強のトルコでも敗北は,20世紀が欧州列強の思い通りならない,時代が始まっていること,新たに植民地を作るのが不可能な時代となったことを示した。7つの海を支配した大英帝国も斜陽になりつつあった。トルコとの戦いで単独では戦えず,英連邦のオーストラリア,ニュージーランド軍を投入している。1920年代の大英帝国はかつての栄光を失いつつあって,トルコの戦いでの敗北は,その後英国が軍事力で威嚇する余力がなく,砲艦外交も時代遅れになっていた。

ムスタファ・ケマル将軍が欧州の勢力の侵略を食い止め,欧州列強の野望を実力でたたきつぶした。自ら指導者となって国家からイスラム色を脱色する世俗主義(セキュラリズム)を推進し,トルコをイスラーム老帝国から近代国民国家として再生させた。そして,彼は新生トルコ共和国の大統領として,わずか15年の統治においてトルコに,文化革命,産業革命などさまざまな革命を先導した。ただ,彼はたまるストレスを酒で発散した。しかし,これが彼の寿命を縮めてしまった。1938年に病没したとき,トルコ国民は彼の死に慟哭したが,彼の革命も道半ばであった。このため,その後のトルコの発展には紆余曲折が続いている。歴史にもしはないが,彼の寿命があと10年続いていたら,独裁者の末期がいつも悲劇に終わるが,トルコの内政・外交はどうなっていたのであろうか

ムスタファ・ケマル将軍が陣頭指揮したガリポリの戦いの戦場跡や博物館を見学したが,この戦いが激戦であったことを実感した。この戦いに動員されたオーストラリア人,ニュージーランド人は大英帝国からの自治権獲得を担保に闘ったのであろうが,その犠牲と代償は余りにも大きかった。戦没したトルコ兵士を埋葬する墓地はきれいに整備されていた。戦死した兵士の墓碑銘を見ながら,20代の若い兵士が多かった。トルコも帝国主義の野望の前に犠牲がいかに大きかったを知ることができた。

トルコでは彼に関する書籍が多数出版されてる。トルコの書籍は,彼への賞賛が多く,彼を客観的に知りのは難しい。この大島直政の『ケマル・パシャ伝』とAndrew Mangoの大冊Ataturk(英語)を併せて読めば,アタテュルクの全体像が理解できる。

2009年5月20日 (水)

松長 昭 『在日タタール人』(東洋書店)

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松長 昭『在日タタール人 歴史に翻弄されたイスラーム教徒たち』<ユーラシアブックレット134>(2009年,東洋書店,600円)

ロシア革命後から朝鮮戦争の1950年代まで,東京・名古屋・神戸・熊本など日本各地にトルコ系民族のタタール人のコミュニティーがあった。在日タタール人はイスラーム教徒であった。在日タタール人たちは羅紗売りの行商などで生計を立て,日本の社会で慎ましく暮らし生き抜いていた。

本書は,ロシア革命とそれに続く内戦を逃れ,旧満洲,朝鮮半島を経て日本に渡来したイスラーム教徒であるタタール人が,在日として過ごした約30年間の歴史を3人のタタール人活動家の足跡を辿りながら検証する。

日本の大陸侵攻における重要な大陸政策の一環として,陸海軍・外務省に利用され,当時無国籍であった彼らが,自らのアイデンティティーを確立し,子孫へと受け継いでいく姿勢は,東京の代々木上原に建設されたモスクや回教学校の開校などからも読み取ることができる。

時局に翻弄されながらも,したたかに戦時下を日本で生き抜き,戦後トルコに移住していったタタール人の知られざる歴史を浮かび上がらせている。

在日タタール人の語り部であった,モヒット・テミンダールさんが3月に亡くなった。在日タタール人の歴史を語れる人がまた逝ってしまった。在日タタール,旧満洲のタタール人の歴史を知ることが日本でもトルコでもますます難しくなりつつある。

2009年5月19日 (火)

アゼルバイジャンの近代文学史 民族文化の覚醒

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トルコマンチャーイ条約 (Turkmanchay, 1828)により帝政ロシアとイランの間でアラス(Araz)河が国境と定められた。これ以後アゼルバイジャンは帝政ロシアとイランに南北二分化されていくが、これは文化面にも大きな影響を与えることになる。北アゼルバイジャンが帝政ロシア支配下に入ると、トビリシ(Tbilisi)にコーカサス総督府が置かれ、ロシア語に通じた現地人の行政官や通訳官を登用するようになった。彼らが知識層を形成するようになって、彼らを通じてロシア文化やロシア文学がアゼルバイジャンに影響を及ぼすようになった。

アーフンドザーデ (Mirza Fathali Ahundzade, 1812-1878)は、通訳官としてロシア語に堪能で西欧文学(とくにフランス文学)やロシア文学に造詣が深かった。彼はモリエールを見習った喜劇や戯曲作品を著して近代演劇の創始し、アゼルバイジャン語のラテン文字表記を提案するなど文化や文学の近代化に大きな役割を果たした。アーフンドザーデが導入した演劇は、ヴァジロフ (Najaf Bey Vazirov, 1854-1926)、ハグヴェルディエフ (Abdurrahman Haqverdiev, 1870-1933)がさらに発展させた。ザルダビ (Hasan Bey Zardabi, 1832-1907)1875年に新聞「エキンジ (Ekinci, 農民)」を創刊した。この頃の文学の特徴はヨーロッパ的な啓蒙主義・合理主義・教養を志向し、文学の使用言語としてペルシア語からアゼルバイジャン語へ移行しつつあった。近代文学は、社会統合を阻害させていた、シーア派とスンナ派の対立を弱めるため世俗主義的な傾向もあった。

サービル (Mirza Sabir, 1862-1911)は「諷刺詩人」として知られている。彼の詩集『ホプホプナーメ(Hophopname)』は今でも版を重ねて人々に愛読されている。19世紀末から20世紀初めにサッハト(Sahhat)、ガニザーデ(Qanizade)などの作家たちとの交流を通じて創作に磨きをかけた。ロシア革命(1905-1907)も彼の諷刺や清新な詩作に影響を及ぼした。帝政ロシア支配下、彼の諷刺詩は検閲をくぐり抜けて掲載され、民衆に新鮮な刺激を与えて共感を呼び起こした。サービルが諷刺詩をアゼルバイジャン文学の一つのジャンルに引き上げた功績は大きい。

 

 ロシア革命(1905-1907)、イラン立憲革命(1906-1911)、青年トルコ人革命 (1908)という3つの革命が文芸思潮や社会情勢に大きな影響を及ぼしている。ロシア革命(1905-1907)期のアゼルバイジャンでは、「イルシャド(Irshad)」、「ハヤト(Hayat)」など現地語による新聞発行が許可された。新聞にはロシア以外のオスマン帝国情勢など国際情勢が掲載され、ニュースを通じてロシア帝国内外の社会情勢が伝わるようになった。検閲が少し緩んだこともあって、ジャーナリズムが都市住民を中心に影響を与えた。グルザーデ (Camal Memmed Quruzade, 1866-1932)は、有名な諷刺雑誌『モッラー・ナスレッディン (Molla Nasreddin)』を創刊し、諷刺文学と風刺画を通じて社会に影響を及ぼした。1905年以後の文学では、アゼルバイジャン語の言語純化が大きなテーマであり、これにはオスマン・トルコ語が影響を与えた。トルコ系諸民族の連帯というパントルコ主義も文芸思潮のテーマの一つであった。ヒュセインザーデ (Ali Bey Huseinzade, 1864-1940)はパントルコ主義の代弁者とも言え、文芸誌『フユザト (Fuyuzat,豊かさ)』を創刊してパントルコ主義の文芸思潮を知識人に鼓吹した。

 1917年のロシア革命によりコーカサスでも独立運動が起き、1918年にアゼルバイジャン民主共和国が独立した。その前の1905年からアゼルバイジャンの知識人の創作活動は高まっていた。独立により検閲のない自由な文学活動が盛んになると思われたが、独立は23ヶ月しか続かなかった。1920年にソビエト政権が樹立されと、文学活動にも制限が次第に加えられるようになった。ラスルザーデ (M. E. Rasulzade) のようにトルコへ亡命した者による文学活動が国外で行われていたが、本国では亡命作家の著書輸入禁止もあって一般の人が読むことを禁止されていた。亡命者文学は、1986年以降のグラスノスチ(情報公開)まで長い間アゼルバイジャンでは読むことのできない幻の文学であった。

 1920年以後のソビエト政権下では、ラテン文字導入や義務教育の普及により、識字率が向上して文学書の読書層が拡大している。1930年代のスターリンの粛正により、ジャーヴィド (H. Javid)、ムサイェフ(Q. Musayev)、シャフバジ (T. Shahbaji)などアゼルバイジャン作家同盟の著名な作家たちが犠牲となった。粛正された作家の多くはアゼルバイジャンの知識人であり、これら作家の喪失はアゼルバイジャン文学にとって大きな損失であり文学活動を停滞させることとなった。それ以後、社会主義リアリズム文学は、社会規範の強制や政治への絶対的な服従により、作家たちの芸術的な才能を萎縮させてしまい、アゼルバイジャン文学を教条主義的な文学にしてしまった。ヴルグン (S. Vurgun)、ジャバルリ (J. Shabarli)、エッフェンディエフ (I. Effendiyev)などは制約された環境下にありながらも民族文学作家として活躍した作家たちもいたが、アゼルバイジャン作家同盟所属の多くの作家たちは共産党に奉仕させられる教条的・迎合的な文学作品を書いた。ソ連時代の新聞や文学作品は検閲を通らなければならず、当局の意に反するような作品は出版されることはなかった。

 1986年代以降のゴルバチョフが推進したペレストロイカを支えたグラスノスチ(情報公開)により、発禁され封印されていた作家の作品が公開された出版されるようになった。グラスノスチとソ連国外との交流増加も刺激となって、新聞・文芸誌が多数発刊され、文学活動も盛んになった。

1991年のソ連崩壊によりアゼルバイジャンは独立を回復したが、その後の経済的な低迷や社会的混乱もあって文学作品の出版は低迷したが、2000年代になると石油収入の増加もあって社会が安定し始めると、サービル、ハジュバヨフなどアゼルバイジャンの名著が再版されている。政府が科学アカデミーや作家同盟での文学研究を支援し、作家たちが詩集や文学書を出版するなど、アゼルバイジャンにおいて文学活動がさかんになりつつある。<これは、以前にあるところで書いたものを多少修正した>

2009年5月18日 (月)

 日土協会編 『日土土日大辞典』(1936年)

Photo_2 日土協会編『日土土日大辞典』(1936年、定価10円)

ケマル・アタテュルクは、1923年にトルコ共和国が成立して以来、さまざまな分野で大きな変革を実施していた。オスマン帝国がスルタンの為の国家であったのとは異なり、彼はトルコ国民の幸せを考えて反発覚悟でさまざまな政策を実行した。

1928(昭和3)年にケマル・アタテュルクが指導した文字革命が実施された。これにより、アラビア文字で表記したオスマン・トルコ語と決別し、トルコ語はローマ字で表記されることとなった。文字革命から約80年が経過した現在では、アラビア語文字表記のオスマン・トルコ語が読めるのは、大学でオスマン・トルコ語の訓練を受けた人だけ、一般のトルコ人は全く読むことができない。

トルコの文字革命が起きた8年後の1936(昭和11)年、日本でローマ字表記トルコ語の日土協会編『日土土日大辞典』が出版されている。トルコ日本大使館で一等通訳官を勤めた内藤智秀(のち聖心女子大学教授)が編集を行った。1936(昭和11)年にローマ字表記のトルコ語辞典が出版されたことは驚くべきことである。世界的にみてトルコ語対訳辞典としては相当に早い。『日土土日大辞典』は先駆的な業績である。編集作業は、文字改革後の早い段階で作業を開始していたのであろう。このような作業を開始させるだけのエネルギーと資金が日土協会にあったことは間違いない。

いまトルコ語を学習する人がよく利用する辞典は、竹内和夫著『トルコ語辞典』(大学書林)である。これは1989(平成元)年に出版され、版を重ねている。日土協会編の辞典が出版されてから、半世紀余り後である。

『日土土日大辞典』はトルコ語の見出し語が約13,000語で大辞典ではない。そして、語義の説明も簡単である。戦後、著名なトルコ語学者(故人)がこの辞典を相当に批判したそうである。確かに、言語学の見地から批判したのかもしれない。それは純粋学問として正しい態度であろう。しかし、これを編纂した努力についても評価すべきではないかと思う。この著名な学者は、トルコ語の文法書も辞典も残すことはなかった。彼のように実力ある研究者は、社会一般のために貢献しようという発想は乏しい。象牙の塔の研究者として、よくある姿かもしれないが、それでは学問の裾野は一向に広がってはいかない。

この辞典は、このような批判などによる先入観から評判がよくなかった。この辞典は利用されず、竹内の辞典が出版される半世紀の間、トルコ語を勉強するのに、トルコ語・英語辞典などを引かさてていた。

この辞典にとって不運だったことは、トルコ語の文字改革と並行して、言語改革も進行していたことであった。1920年から30、40年代へとトルコ語の語彙が変化している。言語改革によりアラビア語・ペルシア語起源の単語がトルコ言語協会やトルコ歴史協会の専門家が創造した新語に代わっていった。このようなトルコ語の変化には対応していないため、戦後顧みられなかった。

改訂や増補されていたならば、早い段階でトルコ語のいい辞書ができていたかもしれない。しかし、そのような作業を引き受ける団体や組織を束ねる人物はでてこなかった。竹内和夫教授個人の辞典が出版されるまで長い時間がかかっている。竹内著のトルコ語辞典にお世話になっている人は多いが、辞典編纂への評価はもっと高くてもいいはずだ。この辞典は現代では役割を終えているが、1920、30年代のトルコの新聞を読む際には、意外に使えることが分かった。

戦後長い間、トルコに対する関心は低く、トルコ語の辞典や文法書への需要が小さかった。1980年代以降、トルコ航空の日本就航など日本・トルコの交流が飛躍的に拡大した。いまでは、多くのトルコ語会話集、文法書が出版されている。交流を深めるためにも、文法書、会話書、辞典などの工具類が必要であことを考えると、忘れられた日土協会編『日土土日大辞典』の功績を再評価してもいいのではないかと思う。

2009年5月17日 (日)

エルトゥールル号遭難地点

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エルトゥールル号遭難地点は,和歌山県大島樫野崎にある。いま,トルコの海洋考古学の研究者が沈没地点の海中で遺物を回収している。

2009年5月16日 (土)

エルトゥールル号弔魂碑

エルトゥールル号で遭難したオスマン帝国軍人の弔魂碑はきれいに清掃されています。近くにはトルコ製品を売る土産物屋がありました。トルコ人の店員さんがいました。

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2009年5月15日 (金)

嗚呼、アタテュルク像!

56日の産経新聞の記事を読んで考えさせられた。トルコ共和国建国の父、ケマル・アタテュルク初代大統領の像の扱いをめぐって、新潟でもめているそうだ。1996(平和8)年、像がトルコから新潟県柏崎市のテーマパーク「トルコ文化村」に寄贈された。しかし、「トルコ文化村」が破綻した。柏崎市は民間業者に像を含めてテーマパークを売却した。その像の扱いが問題となっている。これはゆゆしき問題である。

2次世界大戦後、日本ではGHQ命令によって、歴史上の人物、軍人の銅像が撤去され、銅像というシンボル性に疎くなっている。東京で身近な銅像と言えば、渋谷駅のハチ公、上野の西郷さんの銅像ぐらいであろう。このため、外国の元首であった人物の銅像に対する扱いで非礼を行っていることに鈍感となっている。国旗も国歌も同じである。日の丸が否定的に扱われるのに、平然としている人が外国旗に対して礼を払うことを理解できるであろうか。

ムスタファ・ケマル・アタテュルクはトルコの人々にとって特別な人物である。その人物の銅像や絵画はトルコの至る所にある。そして、トルコ人は彼に対して老若男女を問わず、彼に畏敬の念を抱いている。第1次世界大戦で敗戦したオスマン帝国が英・仏・伊・希の欧州列強により占領され、分割されそうになった。トルコ人たちは彼の指導のもと一丸となって、欧州列強の侵略を跳ね返し、最終的にトルコ共和国として独立を達成した。独立解放戦争中、多くのトルコ人の血が流れ、命が失われた。トルコ共和国の独立はトルコ人の血と汗の代償であった。トルコ国民は、戦いの指導者で独立後の初代大統領、ムスタファ・ケマル・アタテュルクを尊敬しているのだ。

このようなトルコ人にとって特別な人物の銅像が日本でぞんざいに扱われているとトルコで報道された。この報道により、トルコ人は日本人や日本に対して怒っている。これはトルコ共和国の歴史を知っているか否かにかかわらず、外国元首の像に細心の注意を払うのは当然である。アタテュルク像に対する取扱いに細心の注意を払わないことに鈍感になっている日本人の側に大いに問題がある。トルコでは、アタテュルクを侮辱することは刑法により罰せられるのは、彼への冒涜を許さないというトルコ人の意志の表示でもある。

戦後のGHQ命令の影響によって、戦後の日本人は銅像に対するシンボル性への理解が欠如している。これが日本人の間でならば問題はないかもしれないが、諸外国との関係で同じ感覚になっていることが大問題である。アタテュルク像の取扱問題は、国内問題というよりも、日本がトルコから非難を受ける外交問題であることを、関係者は認識して頂きたい。

トルコと日本の間で多くの人々の努力が長い間友好関係を構築してきたが、この問題で両国の友好関係が冷却してしまうことに危惧の念を抱いているのは、私だけではないと思う。この問題解決に向けて、ネット上で署名活動が始まっている。

≪アタテュルク銅像に関して、「ムスタファ・ケマル像を移転する会」(http://www.shomei.tv/project-932.html)のサイトを参照して頂きたい≫

2009年5月14日 (木)

昭和天皇の和歌山県行幸と土耳古軍艦殉難碑(2)

昭和天皇の土耳古軍艦殉難碑訪問は、『和歌山県行幸記録』で次のように記されている。

「第三節 大島村行幸

 一 樫野埼燈台御臨幸

  黒潮洗ふ南紀の果てに畏くも玉蹕を駐めさせ給ふこと茲に三日、山川草木恵み洽く栄光に満ち渡り尽くことなき歓ひの中に早くも御名残の日は来りぬ本日の御日程は左の如し

  六月三日

   午前八、〇〇 海軍余興ボートレース開始 御覧

    一〇、〇〇 御乗艇

    一〇、二〇 樫野桟橋御上陸(御徒歩三十分)

    一〇、五〇 土耳古軍艦遭難記念碑到着  (以下省略)」

先ず、記録には行幸スケジュールが書かれている。昭和天皇はエルトゥールル号遭難記念碑の樫野埼頂上まで30分徒歩で向かった。現在では串本町から橋を渡って車で向かうことができるが、昭和6年当時、自動車道路は未整備であった。

天皇の土耳古軍艦遭難記念碑到着と関係者奉迎、エルトゥールル号遭難事件の概略、天皇の記念碑への敬礼、そして奉迎者の反応の様子が次のように記録されている。

「…午前十時三十五分日土貿易協会理事長山田寅次郎以下協会役員四名の奉迎を受けさせ給ひつつ樫野崎の東岸にある土耳古軍艦遭難記念碑の前に着御あらせらる。想起せば四十年の昔土耳古皇帝は新に我が国と好を修めむとし明治二十三年五月遙に皇族オスマンパシャを特派して命を到さしむパシャや大任を果たし我が皇室の寵遇と上下の歓待とを受けて帰国の途次使節パシャ以下六百五十名の乗組めたる軍艦ヱルトグロール号は同年九月十六日偶々暴風雨に際会して針路を誤り樫野崎燈台付近の暗礁に乗り上げて忽ち覆没し使節以下五百八十一名は遂に艦と運命を共にせり遭難記念碑のある所は即ち其の兆塋にして約五十坪の芝生に四基の石碑立ち並び薊、山百合など咲き乱れて哀愁を唆り脚下は数百丈の断崖をなし巨岩暗礁あたりに碁布して狂瀾怒涛は千古の恨を伝ふ記念碑の前にて 陛下には畏くも御挙手の御会釈を賜はり異郷の地下に眠る六百有余の英霊をして空前の栄光に感涙せしめたるは寔に畏きことの極みにして目の当り之を拝したる山田日土貿易協会理事長は感極りて其の後「誠に難有き極みにて早速此の光栄を打電し蘆田代理公使の手を経てケマル大統領に執奏を乞うべし」と両眼に感激の涙をにじませて物語りたり」

行幸記録には、オスマン帝国使節団長のオスマン・パシャ(将軍)を皇族と記されているが、これは誤りである。昭和天皇はエルトゥールル号遭難者の埋葬地を訪問し、土耳古軍艦記念碑に挙手の敬礼をした。天皇が敬礼した碑と現在ある碑とは異なっている。日本・トルコ関係史では必ず登場する山田寅次郎は、この当時日土貿易会の理事長であった。ここに登場する蘆田代理公使(正しくは代理大使)は、戦後首相をつとめる芦田均である。ケマル・アタテュルク大統領への報告は駐日トルコ大使館からトルコ外務省経由でも伝えられた。

ケマル・アタテュルクが天皇の土耳古軍艦殉難碑訪問の報告を受けたのであろう。天皇の訪問の影響が大きく、山田の尽力もあって、トルコ政府はトルコによる弔魂碑建設を決定した。1936(昭和11)年4月から各地に埋葬されていた遺骨をまとめられ、弔魂碑の建設がトルコの費用で始まった。1937(昭和12)年63日、墓地の改修と新しい弔魂碑が完成し、昭和天皇の土耳古軍艦記念碑訪問と同じ日に除幕式と遭難者追悼祭が挙行された。

樫野の住民は、戦前から現在に至るまで墓地と弔魂碑の清掃を続けてきた。地元の小学校生たちは、毎年11月全校児童が清掃し、墓前でエルトゥールル追悼歌を斉唱している。串本の人々は、100年以上も日本・トルコの友好に草の根レベルで貢献している。

2009年5月13日 (水)

昭和天皇の和歌山県行幸と土耳古軍艦殉難碑 (1)

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昨年、関西の友人たちに誘われて南紀白浜に出かけた。南紀白浜は、関西からは高速道路や特急で出かけるには遠くはないが、東京からは陸路(鉄道でも車でも)遠い場所である。飛行機で行くのが一番便利と思い、羽田からJAL機で向かったが、当日あいにく台風通過後で強風という悪条件に見舞われ、南紀白浜空港に着陸できず、関西空港に着陸した。そこから特急で南紀白浜に向かった。やはり、東京から南紀白浜は遠いと実感してしまった。

南紀白浜まで来た機会を利用して、オスマン帝國海軍軍軍艦「エルトゥールル号」の遭難地点と南方熊楠記念館を訪問した。「エルトゥールル号」の遭難地点は串本町の紀伊大島樫野岬にあって、南紀白浜から串本まで地図で見ると、直線距離は約80キロではあるが、道路は海岸線に沿って遠く、2時間ぐらいかかった。ここまで時間がかかると、東京から串本を訪問する観光客は少ない。

エルトゥールル号遭難事件とは、1890明治23年)916夜半、オスマン帝国の軍艦エルトゥールル号Ertuğrul和歌山県串本沖、紀伊大島樫野埼東方海上で遭難した事件を言う。この事件では、日本側の救援活動が行われ、日本とトルコの友好関係の起点として記憶されている。

昭和天皇の和歌山県行幸と博物学者・南方熊楠の一期一会の邂逅は、南方関係の書籍によく言及されている。南紀白浜や樫野岬などに1931(昭和6年)の昭和天皇行幸記念碑が見ることができた。昭和天皇の和歌山県行幸は、明治以来天皇の行幸として初めてのものであって、それ以前は中世に上皇が熊野詣ぐらいしかなかった。

昭和6年はいま以上に東京から南紀白浜に向かうのは大変であった。昭和天皇は関西での海軍観艦式への参加途中に和歌山県に立ち寄るというのもであった。戦艦長門と供奉艦巡洋艦那智で南紀白浜や串本に立ち寄った。戦艦長門は連合艦隊の旗艦で長い間国民の間で帝国海軍を代表する戦艦であった。戦艦大和や武蔵が戦後よく話題になるが、第2次大戦中は軍事機密で当時は知られることはなかった。巡洋艦那智の名前は紀州那智から取られており、数多く巡洋艦から那智が選ばれたのも和歌山県民への配慮であったかもしれない。

明治以来、最初の和歌山県行幸であり、和歌山県知事は『和歌山県行幸記録』という書籍を刊行している。南紀の和歌山県民の歓迎の様子が分かる。この『和歌山県行幸記録』に中に、昭和天皇の土耳古軍艦殉難碑訪問が記されている。

日本・トルコ関係史では、天皇のエルトゥールル号殉難碑訪問は知られているが、その様子については知られておらず、原文を一部抜粋する。ただ、その原文はカタカナ漢字まじり文で読みにくいので、ひらがな漢字まじり文に改めて紹介する(続く)。

2009年5月12日 (火)

東京回教印刷所

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代々木上原のモスクの隣にある建物の中に「回教印刷所(Matbaa-i Islamiye)」があった。いまでも建物の中に戦前に使われた活版印刷機がホコリをかぶって残されている。コンピュータのDTP印刷の時代となって、活字を拾い組版をつくって印刷するという活版印刷はいまや消えようとしている。昭和戦前期、「回教印刷所」でアラビア文字活字による活版印刷が行われ、クルアーン(コーラン)、ヒジュラ暦、タタール語の教科書や雑誌などが印刷されていた。これらの印刷物は在日イスラム教徒(主にタタール人)向けに販売された。

この印刷所で使われたアラビア文字活字は、トルコ共和国からもたらされたものであった。1928年、トルコでは文字改革が実施され、アラビア文字表記からラテン文字表記に移行した。アラビア文字はありあらゆる場面での使用が禁止された。使われなくなったアラビア文字活字が日本に輸入された。東京回教徒団長ムハンマド・ガブデュルハイ・クルバンガリー(1892-1972年)が活字輸入に尽力した。彼はロシア革命の避難民で、東京にてイマームを務めていた。トルコからの活字を輸入するのに、八田嘉明(1879-1964)満鉄副総裁(鉄道大臣、逓信大臣など歴任)や7代目・森村市左衛門が資金を提供している。

回教印刷所は、アラビア文字活字によるタタール語の『新日本通報(ヤンガ・ヤポン・ムフビレ “Yanga Yapon Möxbire”)』という定期刊行物を発行していた。極東・インド・アフガニスタン・トルコなど33カ国に配布された。海外配布されていることから、この雑誌出版の費用は陸軍省などの機密費が出ていたのかも知れない。

この雑誌はトルコ系のタタール語で出版され、日本の社会・文化・経済などに関する記事が多く掲載されていていた。しかし、使用言語がアラビア語ではなく、中東イスラム世界(当時、「回教圏」と呼称されていた)に対する日本の情報発信として、どれだけの効果があったかは疑問が残る。 この雑誌がアラビア語ではなく、読者が少ないとしても日本の情報を、イスラム世界を対象に対して、継続的に発信した点は評価されてもいいであろう。

戦前期、アラビア文字による出版活動が行われたが、これに関わった在日タタール人たちが戦後米国、オーストラリア、トルコへ移住してしまうと途絶した。中東イスラム世界との交流が盛んになっていている現在でも、アラビア語出版物は非常に少ない。

1938(昭和13)年から、日本におけるイスラム熱というような、イスラムに対する関心が高まっている。その背後には、対回教徒政策(対イスラム政策)があった。外務省後援で『日本 其の産業と文化』という日本紹介の多数の写真を掲載したグラフ誌が6号まで発刊されている。アラビア語、マレー語、トルコ語で日本の紹介をしている。国策に従っていたとは言え、イスラムに対する情報発信に関して、真剣だったことは間違いない。

インターネットが発達した日本が中東イスラム世界に向けて、アラビア語による日本の情報発信がほとんど行われていない。「日本人は情報発信を得意としていない」とは言ってはいられない。普通の日本を知りたがっている中東イスラム世界の人々がいる。「日本の情報発信は重要だが、では何を発信しようか?」と議論するのもいいが、アラビア語、ペルシア語、トルコ語、インドネシア語によって、小さなことでも日本から直接発信すれば、イスラム世界からの反響は思っている以上に大きいはずだ。いまやインターネットは英語圏の人々だけのものではなくなっていることは誰でも知っているのに、日本では日本語と英語以外の言語で発信しているサイトは非常に少ない。

2009年5月11日 (月)

アゼルバイジャン共和国の文字改革

2003年,アゼルバイジャン共和国では、ハイダル・アリエフ大統領(当時)が文字改革の大統領命令を発布した。その布告に基づき、2003年8月1日からラテン文字への切り替えが実施された。ロシア・キリル文字を基にして作られたアゼルバイジャン文字が現代トルコ語文字を参考にしたラテン文字に一斉に切り替わった。7月31日まで新聞はキリル文字であったが、8月1日は全てラテン文字となった。

これは1928年にトルコ共和国でケマル・アタテュルク大統領が実施した文字改革と同じように強制的であった。トルコとアゼルバイジャンでは、強権を持つ指導者が文字改革を実施する確固とした意志があって実現した。中央アジアのウズベキスタンの場合は、権威主義的な大統領が統治しているが、ラテン文字移行も政策として実施している。しかし、漸進的で中途半端であるため、ラテン文字の学校教科書が出版されていると同時に、キリル文字表記の書籍や雑誌が出版されていると、ウズベキスタンのラテン文字化は思うように進んではいない。

アゼルバイジャン語の文字表記は、1929年までアラブ文字を使用していたが、ソビエト共産党の指導により、1929年からラテン文字を使用することとなった。それから10年後、スターリンが非ロシア系少数民族(トルコ系やモンゴル系などイスラム教徒)へのロシア化同化政策をソビエト連邦内で強力に推進した。具体的な政策として、少数民族言語の文字表記がラテン文字からキリル文字に移行することを決定した。アゼルバイジャン語も、1939年にロシア・キリル文字表記となった。1991年のソ連崩壊により、アゼルバイジャンが独立すると、人民戦線などはラテン文字への移行を主張し、それが国会で決議された。しかし、ラテン文字への移行は中途半端であった。90年代のアゼルバイジャンは、経済的・政治的な混迷もあって、文字表記の状態はウズベキスタンと余り変わらない状態にあった。

アゼルバイジャンでは、アゼルバイジャン語の文字表記がアラブからラテン、そしてラテンからキリル、キリルからラテンへと移行した歴史がある。ソ連時代のアゼルバイジャン語のキリル文字使用は、モスクワの政治力が文化面でアゼルバイジャン人に対して、ソビエト・ロシア化を推進し、個人の生活までコントロールするというものであった。それと同時に、トルコ共和国のトルコ語と距離を置くことで、文化面での汎トルコ主義運動に楔を打つことであった。

1939年、アゼルバイジャン語のキリル文字表記への移行と同時に、アゼルバイジャン人の間でロシア語教育が一般に普及していく。教育を通じて、イスラムから距離を置く世俗化(セキュラリズム)が進み、アゼルバイジャン人はロシア語・ロシア文化を愛好するようになった。文化的にロシア・ソ連の影響が増大し,同じことは中央アジアやシベリアでも同時並行的に起きている。しかし、キリスト教を信仰する少数民族のアルメニア人,グルジア人には、民族固有の文字を使わせている。スターリンには、イスラム教徒に対する差別的な感情があったに違いない。

ソ連時代、モスクワ中央で政治局員(ポリトビュロー)にまで上り詰めたハイダル・アリエフ(イスラム教徒としてただ一人)がラテン文字化を断固として推進させた。彼の政治力の背後には、一体何があったのであろうか。キリル文字を捨てることは、ロシアから距離を置くことを決定的に明示することなる。KGB出身で筋金入りの共産党であった、ロシア語・ロシア文化に中で生きてきたアリエフは、アゼルバイジャンの将来は西側との協調なくし発展はないと考えたのかもしれない。アゼルバイジャン語のラテン文字表記の採用に断固とした立場を取ったのであろう。

いまのアゼルバイジャンの大学生やそれ以下の世代は、初等教育、中等教育そして高等教育でラテン文字教育を受けている。このためキリル文字が読めないか、読むのが苦手になっている。同時に学んでいる外国語はロシア語ではなく、英語となっている。ロシア語が出来ない世代が出てきている。若い世代は欧米志向となり、ロシアへの関心はない。ソ連時代に教育を受けた世代がロシア語・ロシア文化に愛着をいまなお持っているのとは対照的に、若い世代はロシアを外国として、ロシア語・ロシア文化を異文化として意識している。

アゼルバイジャン語のラテン文字表記は、アゼルバイジャン人をロシア語・ロシア文化圏から決別させていく。ソ連、ロシアそしてアゼルバイジャンでは、言語学(言語政策)という学問が極めて政治と結びつき、人々の生活に大きな影響を与えている。日本の言語学が純粋な学問で専門家だけの学問であるのとは非常に異なっている。

日本は漢字文化圏にいて漢字を使うのが当たり前となっているが、ベトナムや北朝鮮のように、漢字を捨てて漢字文化圏を離脱した国もある。文化政策が文化をコントロールし、その後の社会に大きな影響を与えていく。漢字を捨てたベトナムも北朝鮮も中国の文化的・精神的な桎梏から解き放されている。日本では、文化というものを軽視し、文化行政は貧困である。文化政策が国民生活への影響を考えなくてもすむの、日本が平和な証拠かもしれない。

2009年5月10日 (日)

三沢伸生(監修) 日土協会『日土協会會報』(CD-ROM, Ver. 1)

三沢伸生(監修),日土協会『日土協会會報』(CD-ROM, Ver. 1,東洋大学アジア文化研究所<非売品>)

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戦前期に出版された雑誌『日土協会會報』が電子化された。監修者の三沢伸生・東洋大学准教授は,戦前期のイスラム(当時は回教が一般的)関係の雑誌を電子化してる。戦
前期に出版された雑誌『回教圏』が複刻されたことがあったが,雑誌を全巻書棚に置いておくのもなかなか大変で,電子化は場所を取らないというメリットがある。それに加えて,電子化により検索が容易になっている。これも監修者のおかげである。

トルコ・日本の間には正式の外交関係が長い間なかった。オスマン帝国が第一次世界大戦で敗戦国となり,英・仏・伊・希によって植民地化され分割されようとした。その時,ムスタファ・ケマル(後のアタテュルク)将軍が独立闘争を開始した。最終的に1923年,トルコ共和国を樹立し,欧州列強の勢力をトルコから駆逐した。

1923年,トルコと欧州列強の間でローザンヌ条約が調印された。この条約には日本も調印した。これにより,新生トルコ共和国と大日本帝國が正式に外交関係を樹立した。ここに正式に外交関係が樹立したが,1875(明治8)年の交渉開始以来半世紀近い歳月が経過していた。

1925年,イスタンブルに日本帝國大使館,東京にトルコ共和国大使館が開館している。当時,在外公館は公使館を置くのが普通であったが,中東で最初の大使館を開館した。これは日本はトルコを重視していた現れであった。

日土協会は,日本・トルコ交流を拡大するため,1926(大正15)年6月15日に東京に設立された。トルコのことを土耳古,土耳其と漢字表記していたことから,「土」の字が用いられている。現代では,外国地名(中国を除いて)を漢字表記しなくなっているが,いまアンカラに土日基金がある。「土」がトルコを意味することを知らずに,土曜と日曜の基金とは何ですかとガイドに質問した日本人観光客がいたそうだが,それも土耳古という言葉を日常使わないから当然かもしれない。

日土協会は,1926(大正15)年12月20日に機関誌(非売品)として『日土協会會報』を創刊した。不定期の逐次刊行物として刊行された。1942(昭和17)年7月1日刊行の第28号が終刊のようであると監修者は指摘している。第2次世界大戦の終結により,日土協会は活動を停止した。終戦後,「土耳其協会」なり,1971(昭和46)年設立の「日本・トルコ協会」が日本・トルコの友好関係に貢献している。

『日土協会會報』は,非売品ということもあって,会員だけに配布されたため,国立国会図書館などで一部が収蔵されているに過ぎない。今回,監修者三沢氏の尽力により全巻電子化されたことは,日本・トルコ関係史を知る上で大きな意味がある。内容は,国際ニュースに容易に近づける現代とは違い,トルコ事情が多い。その中でもトルコ経済や日土間貿易の論文が多い。面白いことにトルコ隣国のルーマニア,ブルガリ,ギリシアの経済状況も掲載されている。会員には日土貿易に従事する人が多くいたのであろう。第24号(昭和15年3月31日発行)前後から,内容的にも現地の報告が消えている。日中戦争期の戦時体制下の検閲と関係があるのかもしれない。

本CD-ROMは非売品であるが,公共図書館に納められているから閲覧は可能。
今回,ご恵存頂きありがとうござました。

2009年5月 9日 (土)

芦田均著『君府海峡通航制度史論』

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トルコに関して忘れられた名著が存在する。戦後首相を務めた芦田均(1887-1959年)は、外交官として約4年間をトルコで過ごしている。トルコ滞在中に彼の子供が亡くなるという悲しいこともあったが、ボスポラス・ダーダネルス両海峡に関する研究を博士論文に纏め上げた。母校の東京帝國大学に提出し、1929(昭和4)年に法学博士の学位が授与された。この博士論文は『君府海峡通航制度史論』(巌松堂、1930年5月)として出版されている。この重厚な書籍は、神田の古本屋でも最近見かけないが、たまに店頭にあっても高値がつけられている。

『君府海峡通航制度史論』には、欧米の文献、特にフランス語が堪能であった芦田は、フランス語文献を熟読し、その成果が多く取り入れられている。著者は自著を『海峡の争奪を中心として見た近東問題』と説明している。トルコの海峡地帯再武装を認め、海峡通航制度を改定した、1936年に締結された《モントルー条約》は含まれていない。しかし、トルコ海峡の通航問題を概観するには、現在でも本書を凌駕する研究書は現れていない。芦田の外交官の立場から、そうさせたのかもしれないが、筆致は極めて穏当で、彼の独自の見解は余り出てはいない。「第10章 日露戦争と海峡通行」という章があるが、日本が海峡を監視していたと言われることなど、日本に関することは全く言及していない。 

芦田は多くの著作を残している。トルコ在勤前のロシア在勤について、『革命前後のロシア』(文藝春秋社、1955年)を残している。これは今読んでも革命前後のロシアの支配者の雰囲気を知るのに参考になる。また,ロシア美人の踊り子が登場するなど,フランス文学に通じていた芦田の文才は精彩に富んでいる。

ロシア勤務と比べると、トルコについては、『バルカン』(岩波新書)でケマル・アタテュルクやトルコを言及しているに過ぎない。専門書『君府海峡通航制度史論』を除いて、トルコ関係の単著を残していない。芦田にとって、前任地ロシアに比べると、イスタンブルでの外交官生活はそれほど刺激的なものではなかったのかもしれない。

芦田が外交生活を送った大日本帝國大使館、戦後は在イスタンブール総領事館は、オスマン帝国銀行総裁の邸宅で趣ある建物であった。現在の総領事館はモダンな高層ビルの一角にある。財務省は使わなくなった建物(国有財産)の売却を外務省に勧告した。現地のトルコ人たちから、この建物を日本文化センターとして活用すべきとの声が上がり、日本の政治家にも陳情が行われた。しかし、外務省は芦田が執務した建物を売却した。

このように由緒ある建築物を日本文化センターのように活用できなかったのも、日本外交の稚拙さや日本文化の発信の重要性への無理解によるものであろう。日本とは対照的に、英国、仏蘭西、独逸などは重厚な建物、歴史ある建築物を総領事館や文化センターとして活用し、各国の情報発信の場とし、トルコ人の関心を惹きつけている。日本人として情けなさを感じているのは私だけではないと思う。

2009年5月 8日 (金)

ウルムチでのロシア語学習熱

新疆ウイグル自治区は中国でも特異な地域である。その自治区の都ウルムチは漢族が人口構成の多数を占めているが、その他の都市カシュガル、イリなどではウイグル族などの少数民族が多数を占めている。このため新疆を訪問した外国人はシルクロードの雰囲気を感じる。中国沿海部が発展して富裕層が形成された。金銭的に余裕のある人々が多く誕生している。このような富裕層は、海外旅行のみならず、エキゾティズムを求めて新疆、内蒙古、チベットなどへの観光旅行が増えている。

中国の経済発展は、中央アジアと新疆の交流を拡大させている。カザフスタンは石油や天然ガスの輸出により、多額の外貨収入を得て、経済的に活況の状況にある。中東産油国と同じように、外貨収入がカザフスタンの第2次産業(製造業)育成などに回されることはない。カザフ人たちは中国製の衣服、自動車の部品、電気製品を買い求めて新疆ウイグル自治区に来ている。ウルムチには、そのような中央アジアの人々のための大きなバザールができている。商店の看板はロシア語・ウイグル語・中国語の表示がされている。

中央アジアとのビジネスチャンスを求めるためであろうか、ウルムチでロシア語学習熱が高まっている。新疆は、帝政ロシア、ソビエト連邦、ソ連崩壊後の中央アジア諸国と国境を接してきたため,外国語としてロシア語が学習されてきた。現代ウイグル語の外来語にはロシア語起源の語彙が多い。中国の沿海部の大都市において、外国語として英語や日本語が熱心に学習されているのとは対照的である。ロシア語を学習している教室にいるのは、そのほとんどが漢族であった。ウイグル族を見かけることはなかった。

新疆では国境を接しているカザフスタンとキルギス(クルグズ)とのビジネスが特に盛んである。人々の交流に使われる言語はロシア語である。新疆にはカザフ語とキルギス語を話す少数民族のカザフ人もキルギス人もいるが、これら少数民族は新疆でも辺境地域に住んでいるため,新疆での国境貿易を担うことは少なく、大きなビジネスは漢族が仕切っている。

数年前にNHKの新シルクロード番組でウルムチが放映されたように、ウルムチはシルクロードのビジネス都市で、漢族の都市に変貌している。往古のシルクロードは絹製品や陶磁器などをキャラバン(隊商)が駱駝の背中に荷駄を載せ東西に南北に交易を行っていた。1990年代から中央アジアと中国は人的・物的交流を拡大させ、再びシルクロードとなっている。

ウルムチのレストランで隣席のビジネスマンがアゼルバイジャンから来ていた。カスピ海産出石油景気に沸くバクーから来たビジネスマンはウルムチに中国製の靴など革製品を買い付けにきていると言っていた。バクーとウルムチ間はアゼルバイジャン航空が就航している。バクーのビジネスマンは空路でウルムチにきて商品を求め、買いつけた品物をコンテナーに詰め込まさせた。コンテナを積んだトラックがカザフスタン経由でバクーまで陸路輸送するとのことであった。雑談から、現代のシルクロード貿易の実態を知ることができた。

日本では知られていないが、現代のシルクロードも中国製品が西に運ばれている。このような内陸貿易では日本製品を見かけることはなく、中国製品のみである。質の向上した中国製品は、実用品として中央アジア・コーカサス・ロシアで広く使われている。日本製品は高品質に重点を置きすぎて高価格になってしまったため、ユーラシア大陸では日本製品を見かけるのは自動車ぐらいしかない。

新疆は中国において西の辺境地域であるかもしれないが、中央アジアから見ればシルクロードの東の始点です。 ウルムチでのロシア語学習が実用的な理由に基づいているように、ロシア語は中央アジアでの実用的な・実務的なリンガフランカとなっている。

2009年5月 7日 (木)

ケマル・アタテュルクと高松宮宣仁親王

アンカラのアタテュルク廟を訪問するとき,その見学コースとして付属博物館を見学するであろう。この博物館はムスタファ・ケマル・アタテュルクの偉業をトルコの国民に伝える場所となっている。アタテュルクが面談した要人たちの写真が掲げられ,要人が贈呈した贈り物が展示されている。それらの写真の一枚に故高松宮殿下の御写真がある。宮様は海軍通常礼装の軍服姿である。

高松宮御夫妻は1931(昭和6)年にトルコを訪問し,アタテュルク大統領と面談している。宮様は大統領に白鞘の日本刀を贈呈した。その日本刀は博物館に展示されている。白鞘の表面に本居宣長の和歌「敷島の大和心を人問わば朝日に匂う山桜花」が毛筆で記されているが,年月が経過し,かすかに読み取れる状態となってしまっている。

ケマル・アタテュルクは高松宮歓迎会を催している。その内容が外務省外交文書に残されている。それによると,アタテュルクは大統領就任後,外国の要人との会談では,通訳を介し,外国語を話すことはなかった。彼が外国語が出来なかった訳ではなく、オスマン帝国の陸軍士官学校でフランス語を学び話すことができた。元首であるから、公的場面では敢えて外国語を使わなかったのであろう。歓迎会では,若き日本のプリンスに好意を示したのか,フランス語で話しかけたそうである。これは異例のことであると書かれている。

ムスタファ・ケマルは,トルコの発展に明治維新を参考としたと言われている。彼が日本語を学んだなどと言う人がいるが,これは全く事実には基づいてはいない。日露戦争に勝利した日本に尊敬の念があったかもしれない。遠い日出づる日本から若きプリンスのトルコ訪問に対して,彼が好意を示したのも当然かもしれない。

宮様のトルコ訪問の頃,日本とトルコの関係は貿易を通じて深まっていたが,1938年アタテュルクが病没すると,イスメット・イノニュが第2代大統領に就任する。両国の関係でトルコは必ずしも友好的ではなくなっている。欧州での国際情勢が影響しているにせよ,日本に対して必ずしも好意を示していないのは,イノニュが砲兵将校の生粋の軍人であって,アタテュルクに比べると、対日理解が浅かった違いがあるのかもしれない。

2009年5月 6日 (水)

『ウズベク語初級 ウズベキスタンへの招待』

            Uzbekishokyuhyoshi                  

伊達 秀『ウズベク語初級 ウズベキスタンへの招待』(星雲社,2008年,199頁+CD,2400円)が出版された。

中央アジアと日本の相互理解を深めるには,現地の言葉を理解することが重要とよく言われています。それで中央アジアの言語を学んでみようと思って,書店の語学の棚を捜してみると。初級用の教科書,文法書,辞書がほとんどないのです。アジアが大切な時代と言われて久しいのに実態はこのようなものです。

日本の中央アジア学研究は,歴史学を中心に長い伝統と蓄積があって,優秀な研究者たちは世界の学界にも大きな影響を与えてきました。中央アジアに関心のある人たちへの裾野を広げるという努力は余り行われてこなかったかもしれません。

ソ連崩壊後,中央アジア諸国が独立し自立すると,日本政府はウズベキスタンを重視する政策をとりました。確かに,公的なレベルでの相互交流は増えました。また,直行便就航でウズベキスタンを訪問する観光客も増加しました。ウズベキスタンに関心のある人が増えていることは間違いないと思います。しかし,もっと理解を深めるためのツールは増えてはいません。

ウズベク語に関して,いままで『ウズベク語辞典』(泰流社)などがわずかに出版されましたが,出版社が倒産したため絶版です。

今回出版された初級文法書は,発音を理解するのにCDが付属しています。奥付の著者の履歴を拝見すると,中央アジアの専門家ではありません。ウズベキスタンに長期滞在し,ウズベキスタンをもっと知ってもらいたく,そのために現地の人とのコミュニケーションが大切だとの思いから文法書を出版しました。著者の努力に敬意を表したいと思います。

文法書はキリル文字とラテン文字の両方で記されています。現地のウズベク人専門家も目を通しており,例文はしっかりしたものです。

もしタシケントを旅行する機会があるならば,次の書籍を購入されることをお勧めします。

鈴木麻矢『ウズベキ語・日本語フレーズブック(Uzbekcha-Yaponcha suzlashgich)』(Toshkent, Yazuvchi)

伊藤氏の文法書と鈴木氏のフレーズブックを併用すれば,より一層の学習効果があがると思います。

日本には優秀な中央アジア研究者がたくさんいます。中央アジア諸語(カザフ語,ウズベク語,トルクメン語,タジク語,キルギス語など)の初級文法書,辞書を作って頂きたいと思っております。

2009年5月 5日 (火)

大谷光瑞とトルコ

大谷光瑞(1876-1948)は,1914年に大谷家が抱えていた巨額の負債整理および教団の疑獄事件のため浄土真宗本願寺派第22世法主と伯爵を辞している。宗門という枠が取れてから,よりスケールの大きな活動を海外でしている。大谷光瑞という人物は島国の日本人のスケールをはるかに超えた巨人であった。だから,凡人の我々は光瑞を理解することが出来なく,彼の業績をいまでも過小評価しているように思える。彼の業績に関して,トルコでの活動も全く顧みられることはなかった。

トルコは,第1次世界大戦敗戦後に英仏伊希列強により,分割支配され植民地にされそうになった。それに対して,ムスタファ・ケマル(後のアタテュルク)将軍の指導もとトルコの民衆は独立戦争に立ち上がり,1923年に最終的にトルコ共和国として独立を達成した。

大谷光瑞は,そのような新生トルコ共和国と日本の連携の重要性を考えたのか,彼の弟子たちをトルコに派遣している。1928(昭和3)年頃,トルコの繊維産業の中心地であるブルサの日本・トルコ合弁の紡績工場が設立させている。「京都出身の10名以上の日本人指導員の努力の甲斐もなく,またアタテュルク大統領が2回も視察に来たという名誉に浴しながらも,約4年間操業ののち破産し,日本人指導員も四散してしまった」(松谷浩尚『日本とトルコ』,中東調査会,43頁)と書かれているように,大谷光瑞のトルコでの活動は失敗に終わってしまったと一般的に理解されている。日本側にブルサでの工場に関する記録が全くない。このように理解されても仕方がないかもしれない。

水野美奈子・龍谷大学教授のグループがブルサでトルコ・日本合弁工場の調査を行っている。水野教授によると,トルコ側の合弁先の子孫はいまでもブルサの有力な企業家で,日本・トルコ合弁に関する記録を整理しきちんと保存しているとのことであった。トルコ側も日本側からのアプローチをずっと待っていたそうです。先入観で史料は何もないと思っていたのは日本側だけで,トルコ側にはブルサの工場史料は残っていた。

いずれにせよ,戦前期の日本・トルコ関係史に大谷光瑞のブルサ工場のことが加わるであろう。大谷光瑞のトルコでの活動がより正確に明らかになる日は近い。

大谷光瑞の弟子に上村辰己という人物がいて,彼は『土耳古革命秘史』という草稿を残しているらしいが,残念ながらどこかに埋もれてしまっている。

2009年5月 4日 (月)

東京回教学校

                    

Mektebi_islamiyye_3

小田急線代々木上原駅の近くにモスクがあるのはみなさんご存じだと思います。いまあるモスクはトルコ宗務庁の支援により建設された二代目の建物です。トルコにあるモスクの様式に似ています。それ以前の建物は,1938(昭和13)年に建てられました。ロシアのカザンなどにあるモスクの様式と似ていましたが,1980年代に老朽化により取り壊されました。いまのモスクの横に倉庫として使われている木造の建物が残されています。この建物は,1930年代には「回教学校」(Mektebi-Islamiyye)として使われ,戦後は「トルコ人学校」(Türk Okul)として使われました。

現在の東京では少なくなってしまいましたが,タタール人と言われるトルコ系の人々が住んでいました。タタール人たちはロシア革命の避難民でした。タタール人の子供たちのために,学校がモスクの隣りにありました。写真はタタール人が国語の教科書を読んでいます。この写真は日本とイスラム教徒の関係を示す宣伝用に撮影されました。

小学校の恩師(79歳)に見せたところ,この教科書を使って勉強したと懐かしがっていました。ですから,この写真に写っている児童や生徒が存命なら80歳前後でしょう。存命ならば,おそらくトルコ,米国,オーストラリアなどの海外に生活しているでしょう。

2009年5月 3日 (日)

菅原純編 『現代ウイグル語小辞典』

Sugawaragengaiuigurugojiten 菅原純編『現代ウイグル語小辞典』(東京外国大学アジア・アフリカ研究所,742頁)がこの2月に出版されました。編者は小辞典と謙遜されていますが,現代ウイグル語見出しで16,000語,日本語見出しで21,000語の語彙を網羅しています。小辞典の規模ではなく,中辞典の規模です。現代ウイグル語語彙がAからZまでローマ字順になって引きやすいです。現代ウイグル語・ウイグル語辞典がアラビア文字の字形順になっているのに比べると,日本人にはずっと引きやすくて便利です。

編者によると,今回500部印刷されて,国内外研究機関,図書館に配布されて残部は少ないそうです。大学の研究所から出版されたため,非売品で一般に販売されないことは残念です。中辞典として優れており,現代ウイグル語の辞典を必要とする人も多くいると思いますから,是非とも一般の出版社から出版されることを期待しています。

個人の相当な努力によって,現代ウイグル語辞典がりっぱに出版されました。日本の学界は,このような基礎的な研究に対して,もっと評価を与えるべきではないでしょうか。辞典を利用する人は,研究者の専門論文を読む人よりもはるかに多いでしょう。辞典編纂など基礎工具の整備に国民の税金が使われていても,社会貢献として誰からも文句をつけられることはないでしょう。

今回,編者から貴重な1冊恵存して頂きました。菅原さん,ありがとうございました。有効に活用させて頂きます。引き続きより大部なウイグル語が完成することを祈念しております。

戦時中のC機関,君府特務機関

外務省外交史料館に所蔵されている外交文書の中に,第二次世界大戦中イスタンブルにあった日本の特務機関(情報機関)であるC機関に関する外交文書がわずかに残されている。Cとはイスタンブルの旧称であるコンスタンチノープルの頭文字を取っている。日本の情報機関がイスタンブルに存在していたはほとんど分かっていない。
第二次世界大戦中,トルコは戦争の帰趨が決まるまで中立を保っていた。初代大統領ケマル・アタチュルクが1938年に死去した後は,イスメット・イノニュが第2代大統領として、「内に平和、外に平和」の外交路線を踏襲し,巧みな外交により第二次世界大戦に巻き込まれることはなかった。
 戦時中,英国,米国,ドイツ,ソ連などは情報部員を中立国トルコに派遣し、情報収集を盛んに行っていた。欧米諸国が諜報活動でしのぎを削る中、日本も総領事館と陸海軍駐在武官が共同して諜報活動を行っていたようである。

随分前(10年ぐらい前),シリア大使で退官したアラビストの多田元大使と雑談したときに,戦時中イスタンブルでC機関員として活動したとのことであった。イラクの枢軸派(親独)高官をトルコ経由でブルガリアに亡命させたこと,戦時中外交関係のあったソ連のバクーを訪問し,GPU(後のKGB)に監視されたとことなど語ってくれた。海軍は駐在武官の松岡明夫海軍大佐が責任者であったそうで,陸軍の話を聞こうとしたら,今は立命館大学教授の某氏が多田大使との面談に登場したので,C機関の話はここで終わってしまいました。

この雑談で,多田元大使が多田駿陸軍大将(参謀本部次長などを歴任)と親戚であることも教えてくれました。

2009年5月 2日 (土)

回教圏研究所の絵葉書

Kaikyoukenkyuusho1 戦前に存在した回教圏攷究所(後に回教圏研究所と改称)が贈呈用に絵葉書を作成していたようで,3枚を入手しました。戦災で焼けてしまいましたが,趣のある建物であったようです。大久保幸次が創立した回教研究所が戦後も続いていたなら,どういう活動をしていたでしょうか。彼はトルコ学者ですから,戦後の早い時期からトルコや西アジアに関する実践的な研究や活動が始まっていたかもしれません。

贈呈用の袋には,住所と電話が書かれています。

 東京市芝区白金三光町256番地 電話 高輪(44)2807番 

イスタンブルの東トルキスタン基金 (2)

東トルキスタン基金の入口の写真です。

「EasternTurkisitanFoundation.pdf」をダウンロード

服部四郎教授とタタール語

 東京大学名誉教授にして、アルタイ諸語研究の世界的権威であった故服部四郎教授(1908―1995年)が話すタタール語を1992年にアンカラで聞く機会があった。奥様のマヒラさんがタタール人であったからかもしれないが、タタール語は非常に流暢であった。おそらく、これだけ流暢にタタール語を話す日本人は今後もなかなかでないのではないかと思う。服部四郎教授は、娘さん(アシヤさん、当時、アンカラ大学日本語学科で日本語を教えられていたが、後に病没された)やお孫さんのいるアンカラを訪れることがあった。トルコにはカザン・タタール人やクリミア・タタール人たちが住んでいるがトルコ語を母語としていて、タタール語は忘れられつつある。タタール人としてのアイデンティティを意識しつつも、タタール語の分からないタタール系トルコ人は多い。

 服部四郎は1933-36年に日本学術振興会の援助を受けて旧満洲でモンゴル語、タタール語、ツングース語などアルタイ諸語研究のため研究生活を送られていた。戦前のハルビンやハイラルには、ロシア革命でロシアから避難を余儀なくされたタタール人が大きなコミュニティーを形成していた。このコミュニティーは、人民中国成立後の1950年代にタタール人たちはトルコなどに移住して消滅している。服部はハルビンやハイラルにあったタタール人たちと交流しながらタタール語の能力を高めたようである。服部が研究し学んだタタール語は、トルコ諸語西北語群に属し、現在ロシア連邦のタタールスタンの公用語として使われているが、戦前にはタタール避難民が満洲、朝鮮、日本などの極東やベルリンなど欧州やトルコにもおり、今よりも広い地域で使われていた。

 トルコには『カザン』という雑誌が1970年代に出版されていた。この雑誌はトルコに移住したタタール人たちの思い出や随想が書かれている。その中にタタール詩人ヒュセイン・ガブドゥシュを追悼した文章があって、ハルビンで夭折のタタール詩人を追憶していた。服部四郎はこのタタール詩人との交流があって、彼の名前を挙げながら彼には繊細な言語感覚があって日本に招待したかったが叶わなかった、と彼の随想に書かれている。

 服部四郎は満洲での研究時代にタタール人マヒラさんと知り合われて、後に結婚された。当時、国際結婚は大変であったらしく、若き日の服部四郎は、三重県の親類から結婚に反対されたが、愛を貫かれて結婚されたと、お孫さん田中亮さんから聞いたことがある。夫人をタタール語のインフォーマント(被調査者)にされてタタール語を研究された。その成果は『アルタイ諸語の研究』(三省堂)に収録されている。ただ、タタール語に通暁されていた服部四郎がタタール語文法をまとめようとの計画があると書かれたものを読んだことがあったが、タタール語文法を残されなかったことは非常に残念なことであった。もしかしたら、残されたノートが筐底にしまわれているかもしれない。服部教授、藤原稔由在トルコ日本大使館参事官(後の第2代、駐アゼルバイジャン大使)と一緒に会食する機会があったが、その時にタタール語に関して、「私と理解し合えるのはニコラス・ポッペ(モンゴル語学、アルタイ諸国に通じた碩学)ぐらいしかいない」と言っていた。本当に凄い研究者だと思った。

 服部四郎の研究は、発表された論文や著書がアルタイ諸語研究や言語学の枠組みから逸脱することのなかった。没後に残されたノート類などが目録化されているが、そのタイトルを見ると、タタール民族活動家イスハキーの新聞記事の翻訳(イスハキ「極東鉄道問題」、「反コミンテルン運動」)や民族学に関する記録などがあり、その関心は幅広いものであったようある。1930年代の満洲のモンゴル人やタタール人に関する記録は貴重であるので、遺族のもとにあるノート類が差し支えない範囲で公開されることが望まれる。

 服部四郎が集めた戦前に旧満洲の奉天(現・瀋陽)で出版されたタタール語週刊紙『ミッリー・バイラク(民族の旗)』がある。タタール民族活動家のアヤズ・イスハキーが欧州から極東(日本・朝鮮・満洲)を訪問し、極東のタタール人同胞の連帯と相互扶助を目的に極東イデル・ウラル・トルコ・タタール文化協会を組織した。昭和10年イスハキーが『ミッリー・バイラク(民族の旗)』の発行人となって機関紙を創刊した。当時、極東のタタール人の間では広く読まれたタタール語の週刊紙であったが、新聞はいつの時代でもそうであるが読まれた後に保存しておくことはなく、極東のタタール人が第二次世界大戦後に極東から離れたトルコ、米国やオーストラリアに着の身着のまま移住したので、この機関紙が保存されることはなく、幻のタタール語週刊紙であった。服部四郎没後、遺族の配慮により蔵書などが一括して島根県立大学に寄贈された。《服部四郎ウラル・アルタイ文庫》として島根県立大学メディアセンターに所蔵され公開されている。服部四郎の几帳面な性格もあって、この幻と思われた週刊紙が一部を除いて保存されていて蔵書の中にあることが分かった。

 ロシア連邦タタールスタン共和国からの留学生ラリサ・オスマノヴァさんがこの残されたタタール語の資料を活用し、極東のタタール人の歴史を英語論文にまとめられて島根県立大学から博士号が授与されたことは大きな業績です。

2009年5月 1日 (金)

イスタンブルの東トルキスタン基金

1950年代に東トルキスタン(新疆)からパキスタンを経由し,トルコに移住したウイグル人やカザフ人たちがイスタンブルにいる。彼ら彼女たちはトルコ国籍を取得しているから、ウイグル系、カザフ系トルコ人である。トルコはかつてオスマン帝国で多民族国家であったが、1923年のトルコ共和国独立後にアタチュルク大統領が「トルコ人のトルコ共和国」という国民国家の建設に邁進した。このため非トルコ系のクルド人などは民族性を意図的に消されてきた。最近のトルコはEUに加盟を求めることから、欧州委員会から少数民族の権利を擁護することも求められ、これに答えるため少数民族の権利を認めるようなっている。
 ウイグル系やカザフ系トルコ人たちは、トルコ系であり、トルコの歴史観によればトルコ民族は突厥や古代ウイグル民族に連なるので、1950年代にトルコに移住してからもウイグルやカザフと言う名称を使って相互扶助の協会などを作っている。そのような団体のひとつとして、「東トルキスタン基金」(Eastern Turkistan Foundation)がある。
 東トルキスタン基金のルザ・ベキン理事長は、東トルキスタンのホータン(和田)出身で元トルコ陸軍少将である。ベキン元将軍は1925年にホータンで生まれ、1930年代に家族一族とともに東トルキスタンの混乱から逃れるためアフガニスタンのカブールに向かった。ベキンの伯父エミン・ブグラは東トルキスタン南部のリーダーであった。
 元将軍はアフガニスタン駐在シェヴケト・エセンダル・トルコ大使の支援を受けて1930年代にトルコに移住し、トルコ陸軍士官学校に入学した。その後、士官学校を卒業し、将校として軍務に就いた。陸軍大学も卒業し、朝鮮戦争にも従軍した。将校として昇進し、最終的に陸軍少将にまで昇り退役した。ウイグル系トルコ人として将軍にまで上り詰めたのはベキン将軍だけである。トルコでは軍人が尊敬されていて、ベキン元将軍はウイグル人コミュニティーにおいても信望を得ている。アンカラ大学シノロジー(中国学)教授であった故ベキン教授は兄であった。イスタンブルの東トルキスタン基金は、新疆のウイグル独立運動のような政治活動を支援することはなく、トルコ国内にいるウイグル系トルコ人の親睦団体である。東トルキスタンという名称は、中国では分裂主義を扇動するとのことで、この名称を使用することを禁止している。ベキン理事長との会話では、イスタンブルの中国総領事館は東トルキスタン財団の活動に注目しているとのことであった。元将軍はパーティーなどで中国総領事と会って会話するとき、東トルキスタン基金はオープンですから,来訪をいつでも歓迎すると言っているそうです。しかし、一度も来訪はないそうです。
 トルコ国籍を持つウイグル系トルコ人でっても、中国は東トルキスタンという名称のつく団体の活動を注視している(あるいは、それとなく監視しているのかも)。トルコにはその他にもウイグル人の団体や組織があるが、その多くに属しているウイグル系トルコ人たちは、父祖の地である東トルキスタン(新疆)への関心があるが、現地の新疆のウイグル人との親戚との交流はあまりない。それでも、いろいろなツテを利用してトルコに留学するウイグル人たちを、同族意識からか支援している。
 トルコに留学しているウイグル人たちの中には、トルコでの生活や習慣に慣れてくると、新疆に戻らずトルコに定住する人やトルコ国籍を取得する者たちも多くいる。新疆ウイグル自治区は、中華人民共和国の一部であり、ウイグル人は少数民族としてある程度優遇されているが、トルコにおいて自由を享受したウイグル人たちは新疆に戻りたがらない留学生たちも多い。

 トルコは中央アジア・コーカサスやロシア連邦内のトルコ系諸民族をトルコ政府給費や私費の留学生として多く受け入れいる。中国政府は、ウイグル人がトルコに留学することにより、新疆に汎トルコ主義やイスラム主義運動が広まることを警戒している。ウイグル人に対するパスポート発給を制限するなど、ウイグル人がトルコに留学することを見えない形で阻止している。中国政府がウイグル人のトルコへの留学を阻止しようとする背景には、中国政府の新疆統治や少数民族支配に対する自信と漢民族としてのウイグル人への優越感があるのにもかかわらず、ウイグル民族運動やイスラム原理主義に対して、不信感と警戒感が強いからであろう。

東トルキスタン基金はイスタンブルのアクサライ区役所の近くにある。ここに付属している食堂という雰囲気のカンティンでは、ラグマン(肉うどん)が食べられる。イスタンブルでラグマンが安く食べられるのはここぐらいかもしれない。

ブログ始めます。

ブログ始めます。慣れないので皆さん教えてください。字は読みやすいよう大きくしました。

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