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2009年5月14日 (木)

昭和天皇の和歌山県行幸と土耳古軍艦殉難碑(2)

昭和天皇の土耳古軍艦殉難碑訪問は、『和歌山県行幸記録』で次のように記されている。

「第三節 大島村行幸

 一 樫野埼燈台御臨幸

  黒潮洗ふ南紀の果てに畏くも玉蹕を駐めさせ給ふこと茲に三日、山川草木恵み洽く栄光に満ち渡り尽くことなき歓ひの中に早くも御名残の日は来りぬ本日の御日程は左の如し

  六月三日

   午前八、〇〇 海軍余興ボートレース開始 御覧

    一〇、〇〇 御乗艇

    一〇、二〇 樫野桟橋御上陸(御徒歩三十分)

    一〇、五〇 土耳古軍艦遭難記念碑到着  (以下省略)」

先ず、記録には行幸スケジュールが書かれている。昭和天皇はエルトゥールル号遭難記念碑の樫野埼頂上まで30分徒歩で向かった。現在では串本町から橋を渡って車で向かうことができるが、昭和6年当時、自動車道路は未整備であった。

天皇の土耳古軍艦遭難記念碑到着と関係者奉迎、エルトゥールル号遭難事件の概略、天皇の記念碑への敬礼、そして奉迎者の反応の様子が次のように記録されている。

「…午前十時三十五分日土貿易協会理事長山田寅次郎以下協会役員四名の奉迎を受けさせ給ひつつ樫野崎の東岸にある土耳古軍艦遭難記念碑の前に着御あらせらる。想起せば四十年の昔土耳古皇帝は新に我が国と好を修めむとし明治二十三年五月遙に皇族オスマンパシャを特派して命を到さしむパシャや大任を果たし我が皇室の寵遇と上下の歓待とを受けて帰国の途次使節パシャ以下六百五十名の乗組めたる軍艦ヱルトグロール号は同年九月十六日偶々暴風雨に際会して針路を誤り樫野崎燈台付近の暗礁に乗り上げて忽ち覆没し使節以下五百八十一名は遂に艦と運命を共にせり遭難記念碑のある所は即ち其の兆塋にして約五十坪の芝生に四基の石碑立ち並び薊、山百合など咲き乱れて哀愁を唆り脚下は数百丈の断崖をなし巨岩暗礁あたりに碁布して狂瀾怒涛は千古の恨を伝ふ記念碑の前にて 陛下には畏くも御挙手の御会釈を賜はり異郷の地下に眠る六百有余の英霊をして空前の栄光に感涙せしめたるは寔に畏きことの極みにして目の当り之を拝したる山田日土貿易協会理事長は感極りて其の後「誠に難有き極みにて早速此の光栄を打電し蘆田代理公使の手を経てケマル大統領に執奏を乞うべし」と両眼に感激の涙をにじませて物語りたり」

行幸記録には、オスマン帝国使節団長のオスマン・パシャ(将軍)を皇族と記されているが、これは誤りである。昭和天皇はエルトゥールル号遭難者の埋葬地を訪問し、土耳古軍艦記念碑に挙手の敬礼をした。天皇が敬礼した碑と現在ある碑とは異なっている。日本・トルコ関係史では必ず登場する山田寅次郎は、この当時日土貿易会の理事長であった。ここに登場する蘆田代理公使(正しくは代理大使)は、戦後首相をつとめる芦田均である。ケマル・アタテュルク大統領への報告は駐日トルコ大使館からトルコ外務省経由でも伝えられた。

ケマル・アタテュルクが天皇の土耳古軍艦殉難碑訪問の報告を受けたのであろう。天皇の訪問の影響が大きく、山田の尽力もあって、トルコ政府はトルコによる弔魂碑建設を決定した。1936(昭和11)年4月から各地に埋葬されていた遺骨をまとめられ、弔魂碑の建設がトルコの費用で始まった。1937(昭和12)年63日、墓地の改修と新しい弔魂碑が完成し、昭和天皇の土耳古軍艦記念碑訪問と同じ日に除幕式と遭難者追悼祭が挙行された。

樫野の住民は、戦前から現在に至るまで墓地と弔魂碑の清掃を続けてきた。地元の小学校生たちは、毎年11月全校児童が清掃し、墓前でエルトゥールル追悼歌を斉唱している。串本の人々は、100年以上も日本・トルコの友好に草の根レベルで貢献している。

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