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2009年5月 7日 (木)

ケマル・アタテュルクと高松宮宣仁親王

アンカラのアタテュルク廟を訪問するとき,その見学コースとして付属博物館を見学するであろう。この博物館はムスタファ・ケマル・アタテュルクの偉業をトルコの国民に伝える場所となっている。アタテュルクが面談した要人たちの写真が掲げられ,要人が贈呈した贈り物が展示されている。それらの写真の一枚に故高松宮殿下の御写真がある。宮様は海軍通常礼装の軍服姿である。

高松宮御夫妻は1931(昭和6)年にトルコを訪問し,アタテュルク大統領と面談している。宮様は大統領に白鞘の日本刀を贈呈した。その日本刀は博物館に展示されている。白鞘の表面に本居宣長の和歌「敷島の大和心を人問わば朝日に匂う山桜花」が毛筆で記されているが,年月が経過し,かすかに読み取れる状態となってしまっている。

ケマル・アタテュルクは高松宮歓迎会を催している。その内容が外務省外交文書に残されている。それによると,アタテュルクは大統領就任後,外国の要人との会談では,通訳を介し,外国語を話すことはなかった。彼が外国語が出来なかった訳ではなく、オスマン帝国の陸軍士官学校でフランス語を学び話すことができた。元首であるから、公的場面では敢えて外国語を使わなかったのであろう。歓迎会では,若き日本のプリンスに好意を示したのか,フランス語で話しかけたそうである。これは異例のことであると書かれている。

ムスタファ・ケマルは,トルコの発展に明治維新を参考としたと言われている。彼が日本語を学んだなどと言う人がいるが,これは全く事実には基づいてはいない。日露戦争に勝利した日本に尊敬の念があったかもしれない。遠い日出づる日本から若きプリンスのトルコ訪問に対して,彼が好意を示したのも当然かもしれない。

宮様のトルコ訪問の頃,日本とトルコの関係は貿易を通じて深まっていたが,1938年アタテュルクが病没すると,イスメット・イノニュが第2代大統領に就任する。両国の関係でトルコは必ずしも友好的ではなくなっている。欧州での国際情勢が影響しているにせよ,日本に対して必ずしも好意を示していないのは,イノニュが砲兵将校の生粋の軍人であって,アタテュルクに比べると、対日理解が浅かった違いがあるのかもしれない。

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コメント

>ムスタファ・ケマルは,トルコの発展に明治維新
>を参考としたと言われている。彼が日本語を学
>んだなどと言う人がいるが,これは全く事実に
>は基づいてはいない。

基本的なモデルはフランスの共和制ですよね。日本語の話もそうですが、「エルトゥールル号事件はトルコ国民は誰でも知っていて、一様に日本に恩義を感じている。それが、イ・イ戦争時のテヘランへの航空機派遣につながった云々」とか、そういうありもしない親日エピソードが語られることが、最近は多いような気がします。

ケマルが日本に対して,ある程度好意のあったようです。吉田トルコ大使が入院し,ケマルが見舞いをしました。その後,吉田大使はトルコで没しました。ムスタファ・ケマルが大統領となってかから,大使の病床を見舞うことは例外中の例外でした。
エルトゥールル号事件を日土友好の証しにしていますが,これも事件後相当たってから友好の材料にされていきますね。特に,昭和天皇の土耳古殉難碑への会釈後に,山田寅二郎が動き始めますね。
イラン革命のトルコ機による邦人救出に関しては,故オザル大統領の動きが重要ですね。彼は商社マンであったとき,日本に20回ぐらい来ていて,日本とのパイプが太かったですね。政治家では,故金丸議員と親しかったですね。そういう個人的な人間関係が日本とトルコの間で動いていましたね。

>イラン革命のトルコ機による邦人救出に関しては
>,故オザル大統領の動きが重要ですね。

ネット上に流布している〝エルトゥールル号の報恩譚”では、何故か故オザル大統領の名前が出てきませんね。この件に関して、本来は最も感謝されるべき人物だと思うのですが。この人に焦点を当てすぎたら、〝トルコ国民は誰もがエルトゥールル事件のお陰で日本に恩義を感じている”という前提が怪しくなるからでしょうか。

オザルの決断が重要です。ほとんど、取り上げられていません。トルコ航空機が邦人救出にテヘランに飛びました。邦人もチャーター機なので、高い運賃を支払ったと思いますよ。企業の人しか乗れませんよね。そういった、裏話は伝わらず、美談にされていきますよね。

>裏話は伝わらず、美談にされていきますよね。

「エルトゥールル号の報恩譚」や、両事件と山田寅次郎しか出てこないような「日土友好史」は、イスラームやタタール人や日本の大陸政策といった、現在の日土両体制にとって煙たいものがきれいに除去されているという点において、極めて有害だと思っています。これをインドに置き換えれば、R.B.ボースらの存在を無視し、終戦直後にあちらから送られた象か何かを起点に、「日印友好史」をでっち上げるようなものではありませんか。


戦前のタタール・バシキール人と陸軍・海軍・外務省、アジア主義者が登場して、トルコが国際政治と結びつく現実を捨象していてはダメですね。友好史になってしまうと、生々しい現実にはフタをしてしまいますよね。日中、日韓の関係をみていれば分かるように、トルコと直接の関係が深まれば深まるほど、そんなに良い面だけだとはおもいませんが…。

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