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2009年5月 2日 (土)

服部四郎教授とタタール語

 東京大学名誉教授にして、アルタイ諸語研究の世界的権威であった故服部四郎教授(1908―1995年)が話すタタール語を1992年にアンカラで聞く機会があった。奥様のマヒラさんがタタール人であったからかもしれないが、タタール語は非常に流暢であった。おそらく、これだけ流暢にタタール語を話す日本人は今後もなかなかでないのではないかと思う。服部四郎教授は、娘さん(アシヤさん、当時、アンカラ大学日本語学科で日本語を教えられていたが、後に病没された)やお孫さんのいるアンカラを訪れることがあった。トルコにはカザン・タタール人やクリミア・タタール人たちが住んでいるがトルコ語を母語としていて、タタール語は忘れられつつある。タタール人としてのアイデンティティを意識しつつも、タタール語の分からないタタール系トルコ人は多い。

 服部四郎は1933-36年に日本学術振興会の援助を受けて旧満洲でモンゴル語、タタール語、ツングース語などアルタイ諸語研究のため研究生活を送られていた。戦前のハルビンやハイラルには、ロシア革命でロシアから避難を余儀なくされたタタール人が大きなコミュニティーを形成していた。このコミュニティーは、人民中国成立後の1950年代にタタール人たちはトルコなどに移住して消滅している。服部はハルビンやハイラルにあったタタール人たちと交流しながらタタール語の能力を高めたようである。服部が研究し学んだタタール語は、トルコ諸語西北語群に属し、現在ロシア連邦のタタールスタンの公用語として使われているが、戦前にはタタール避難民が満洲、朝鮮、日本などの極東やベルリンなど欧州やトルコにもおり、今よりも広い地域で使われていた。

 トルコには『カザン』という雑誌が1970年代に出版されていた。この雑誌はトルコに移住したタタール人たちの思い出や随想が書かれている。その中にタタール詩人ヒュセイン・ガブドゥシュを追悼した文章があって、ハルビンで夭折のタタール詩人を追憶していた。服部四郎はこのタタール詩人との交流があって、彼の名前を挙げながら彼には繊細な言語感覚があって日本に招待したかったが叶わなかった、と彼の随想に書かれている。

 服部四郎は満洲での研究時代にタタール人マヒラさんと知り合われて、後に結婚された。当時、国際結婚は大変であったらしく、若き日の服部四郎は、三重県の親類から結婚に反対されたが、愛を貫かれて結婚されたと、お孫さん田中亮さんから聞いたことがある。夫人をタタール語のインフォーマント(被調査者)にされてタタール語を研究された。その成果は『アルタイ諸語の研究』(三省堂)に収録されている。ただ、タタール語に通暁されていた服部四郎がタタール語文法をまとめようとの計画があると書かれたものを読んだことがあったが、タタール語文法を残されなかったことは非常に残念なことであった。もしかしたら、残されたノートが筐底にしまわれているかもしれない。服部教授、藤原稔由在トルコ日本大使館参事官(後の第2代、駐アゼルバイジャン大使)と一緒に会食する機会があったが、その時にタタール語に関して、「私と理解し合えるのはニコラス・ポッペ(モンゴル語学、アルタイ諸国に通じた碩学)ぐらいしかいない」と言っていた。本当に凄い研究者だと思った。

 服部四郎の研究は、発表された論文や著書がアルタイ諸語研究や言語学の枠組みから逸脱することのなかった。没後に残されたノート類などが目録化されているが、そのタイトルを見ると、タタール民族活動家イスハキーの新聞記事の翻訳(イスハキ「極東鉄道問題」、「反コミンテルン運動」)や民族学に関する記録などがあり、その関心は幅広いものであったようある。1930年代の満洲のモンゴル人やタタール人に関する記録は貴重であるので、遺族のもとにあるノート類が差し支えない範囲で公開されることが望まれる。

 服部四郎が集めた戦前に旧満洲の奉天(現・瀋陽)で出版されたタタール語週刊紙『ミッリー・バイラク(民族の旗)』がある。タタール民族活動家のアヤズ・イスハキーが欧州から極東(日本・朝鮮・満洲)を訪問し、極東のタタール人同胞の連帯と相互扶助を目的に極東イデル・ウラル・トルコ・タタール文化協会を組織した。昭和10年イスハキーが『ミッリー・バイラク(民族の旗)』の発行人となって機関紙を創刊した。当時、極東のタタール人の間では広く読まれたタタール語の週刊紙であったが、新聞はいつの時代でもそうであるが読まれた後に保存しておくことはなく、極東のタタール人が第二次世界大戦後に極東から離れたトルコ、米国やオーストラリアに着の身着のまま移住したので、この機関紙が保存されることはなく、幻のタタール語週刊紙であった。服部四郎没後、遺族の配慮により蔵書などが一括して島根県立大学に寄贈された。《服部四郎ウラル・アルタイ文庫》として島根県立大学メディアセンターに所蔵され公開されている。服部四郎の几帳面な性格もあって、この幻と思われた週刊紙が一部を除いて保存されていて蔵書の中にあることが分かった。

 ロシア連邦タタールスタン共和国からの留学生ラリサ・オスマノヴァさんがこの残されたタタール語の資料を活用し、極東のタタール人の歴史を英語論文にまとめられて島根県立大学から博士号が授与されたことは大きな業績です。

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