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2009年6月

2009年6月30日 (火)

『維吾尓語基礎教程』(中央民族大学出版社)

Uigurugokisokyotei 阿孜古麗・阿布力米堤編著『維吾尓語基礎教程』(中国北京,中央民族大学出版社)

日本では,ウイグル語を学ぶ理由はいろいろあると思う。新疆を旅行して,ウイグル人と知り合いウイグル文化をもっと理解するため学習する人,新疆の歴史に関心があるため,ウイグル語を学ぶなど動機はさまざまであろう。日本は東アジアでも不思議な国である。ウイグル語を学ぶ人,ウイグルの文化,音楽などさまざまなことに関心がある人が多くいる。ある時はシルクロードという言葉に魅了されていた時代もあった。いまでは,距離的に近くはないが,関心ある人が簡単に新疆を訪問できる。現地を訪れてからウイグル語に関心を持つようになった人も多くいる。

ウイグル語を学ぶための文法書や辞書はまだまだ数が少ない。初心者が学べ適切なウイグル語初級文法書もない。辞書については,近いうちにいいウイグル語の辞典が市販される予定である。ウイグル語学習の環境はこれからやっと整っていく。

中国北京で出版されたウイグル語の文法書がある。これは教科書としては大部なものである。読解力をつけることに重点がおかれている。初級を終えた人にとって,読解力をつけるのに役立つ。ウイグル語・日本語辞典が出版されたときに,これを引きながら利用すれば,ウイグル語の読解力が身につくであろう。

ところで,中国では漢族の一体誰がウイグル語を学ぶのであろうか。この書籍を購入した北京一番の繁華街にある王府井書店には,実用書や教科書を購入する中国人(漢族)はたくさんいるが,少数民族の言語の棚を見る人はいつもいない。漢族は少数民族の言語や文化に関心がない。中華思想からか,少数民族を外夷と見なしている。漢族は少数民族が漢語(中国語)を学ぶべきと思っているから,少数民族の言語を学ぼうとは全く思っていない。例えば,日本人にとってウイグル語は外国語の一つであっても,漢族にとってはウイグル語は外国語ではなく,一層関心がない。

日本では中国の少数民族言語を学ぶのは,純粋に興味関心などからである。中国では少数民族を統治するために学ぶ,少数の漢族(共産党や公安関係者)がいる。そういう漢族のために,この本は利用されるのであろうか。中国ではそういう利用目的があるにせよ,日本ではウイグル語を学ぶ道具として平和的に利用させてもらえる。

2009年6月29日 (月)

山田邦紀,坂本俊夫『明治の快男児トルコへ跳ぶ 山田寅次郎伝』

Meijikaidanji 山田邦紀,坂本俊夫『明治の快男児トルコへ跳ぶ 山田寅次郎伝』(現代書館,1800円)

プロローグ トプカプ宮殿

第一章 山田寅次郎と幸田露伴

第二章 エルトゥールル号来朝

第三章 救護活動

第四章 寅次郎,義捐金活動に動く

第五章 エルトゥールル号事件までの寅次郎

第六章 寅次郎トルコへ

第七章 トルコの寅次郎

第八章 日露戦争

第九章 実業家・寅次郎

第十章 茶道家元・寅次郎

第十一章 その後の日本・トルコ関係

いままで,オスマン帝国からの帰国後の山田寅次郎について,断片的に紹介されてきたが,この書籍は著者たちが丹念に取材を重ね,実業家,茶道家元の山田そして日本・トルコ貿易会に尽力した業績についても明らかにしている。山田の全体像を見せてくれている。山田寅次郎を通じた,日本・トルコ関係史を理解するのに役立つ,読みやすい本である。

日本・トルコ関係史で欠かすことのできない,人物として山田寅次郎がいる。オスマン帝国末期に滞在した山田は,いろいろと伝説化されている。事実よりも伝説が巷に流布している。そんな山田寅次郎の伝記が出版された。

2009年6月28日 (日)

井筒俊彦と前嶋信次

6月27日,慶應義塾大学でシンポジウム「井筒俊彦と前嶋信次 日本おけるイスラーム研究の源流を探る」を聴講した。

1.イスラーム学事始の頃の井筒俊彦  

  慶應義塾大学文学部教授 坂本 勉

2.前嶋信次『アラビアン・ナイト』原典訳への道

  東京大学大学院教授 杉田 英明

3.今なぜ前嶋信次か,井筒俊彦か

  早稲田大学特任教授 家島 彦一

イスラム学者・言語哲学者として世界的に令名をはせた碩学,故井筒俊彦教授のアラビア語講読での厳しさ,タタール人学者ムーサ・ジャールッラーからイスラム学を学んだことなど講演で聴くことができた。いまや伝説にもなってしまっている,井筒教授の生前の様子を聞くことができた。

講演者家島教授は,井筒教授を「こわかった」と言っていた。今では学問的な裏付けに基づいた,こわい碩学は絶滅してしまったと言えよう。

2009年6月27日 (土)

国際語学社 田村茂社長の急逝を悼む

最近,国際語学社はさまざまな言語の語学書の出版で伸びている。その会社を若い社員とともに活躍していた社長の田村茂さんが6月25日に59歳で急逝した。あまりにも早い死であった。こころより,お悔やみ申し上げます。

国際語学社のホームページに,田村社長の語学書に対する,思いが書かれている。

「私が以前、語学の出版社にいた頃から「街中で使えるような外国語会話の本」がなく、もっと実用性のある本を出版したいと思っていました。そして、アジアの小さな国々の事を知らない人や日本にいる外国人とコミュニケーションが取れない人・・・などが、まずは挨拶だけでもできるようになってお互いを知り、人の輪をつないでいければ・・・という思いで語学参考書を出版する当社を作りました」

社長の思いは若い社員にも引き継がれて欲しい。

英語の参考書なら,書店にやまほどある。需要があるから出版されると言われているが,実際には売れずに裁断処分される英語関係の本は非常に多いと聞いた。

少数言語は需要が小さいから,書店でも大きな書店の棚しかない。出版社の数も限られているが,後発の国際語学社であるが,初心者に向けた書籍を多く出版していることは大いに評価されていい。

少数言語を長年出版している,某出版社は確かに,辞典や文法書などいい書籍を出版している。需要がないため,値段が高くなってしまうのは当然かもしれないが,ある言語の辞典では,1冊8万という定価がついていた。図書館は買うかもしれないが,研究者さえ及び腰だろう。辞書は一生ものなので長年使えば高くはないかもしれないが,やはり敷居は高くなってしまう。

これに比べると,国際語学社は初心者に良心的な会社である。田村社長亡き後も,少数言語の出版活動の発展を祈念します。

2009年6月26日 (金)

トカイ詩集

 Tuqay_2

ガブゥッラー・トカイ(Gabdulla Tuqay, 1886-1913)という夭折のタタール人詩人がいる。トカイの心の叫びを記した詩は,現在のロシア連邦のタタールスタン共和国のタタール人たちが愛読している。

トカイの詩は,ロシア革命で満洲など極東に亡命したトルコ系タタール人が愛読したタタール語の書籍の一つであった。故郷を想う亡命者たちは,亡命の地で育つ子供たちに読ませるため,トカイの詩を満洲の奉天(現・瀋陽)で日本人が経営している出版社で印刷されている。海外にあった日本人の印刷所とタタール語の詩集の印刷の組み合わせは興味深い。旧満洲では,日本人も異国人であるから,当時としては普通のことであったのであろう。

Tokay01

旧満洲で出版された,トカイの詩集が神田の古本屋の店頭に並んでいた。これも戦後トルコなどに移住していったタタール人家族が残していった本であろうか。こういった書籍は国会図書館にも大学図書館にも収蔵されていない。在日の異国人の書籍は図書館の収集からすっぽり抜けている。夫人がタタール人であり,タタールの言語や文化に関心のあった故服部四郎教授(言語学者,文化勲章受章者)が収集した,奉天など極東で出版されたタタール語Tokay02新聞などが《服部四郎文庫》として,島根県立大学に残されているぐらいである。

2009年6月25日 (木)

大日本回教協会 『世界回教徒対策の必要性に就いて』

Sekaikaikyototaisakuno 大日本回教協会 『世界回教徒対策の必要性に就いて』(昭和13年

昭和13(1938)年は日本のイスラム熱が高揚した年であった。代々木上原に東京モスクが完成し,国策翼賛機関である《大日本回教協会》が林銑十郎元首相を会長に戴いて成立した。貴紳顕官がメンバーに名を連ねている。しかし,この協会に名を連ねた人々はイスラムもイスラム諸国も何も知らない人々であった。

協会会員向けに出版されたパンフレットが数冊でている。<マル秘>『世界回教徒対策の必要性に就いて』が第1号として出版されている。現在,これを読んでみて,何ら秘密になるような内容はない。いまのようにインターネットを通じて,世界情報やイスラム情報を瞬時に入手できる時代とは違い,戦前では海外情報や国際情勢は一部のものだけが入手できるものであった。少ない情報量の時代は,一部の人間が情報を独占し,これを他者には教えないという,情報の囲い込みの時代であった。イスラムに関しても同じであった。だから,内容的にたいしたことがなくても,マル秘にしている。これを読んで,国際関係に影響を与えるため,マル秘としていることを見ていて,国際情報を必要以上に囲い込んでいたことと,外国に対して過剰反応していたことがわかる。

現在は情報過多の時代であるが,情報を取捨選択することは誰でもできる時代は幸せかもしれない。しかし,本当に意味ある情報を見抜くのは難しい。海外から日本がどう見られているかに気にしているのは,戦前もいまも同じあろう。

2009年6月24日 (水)

坂本勉著 『トルコ民族の世界史』(慶應義塾大学出版会)

Torukominzokunosekaishi 坂本 勉著 『トルコ民族の世界史』(慶應義塾大学出版会,2300円)

著者が以前出版し,いまは絶版になっている『トルコ民族主義』(講談社現代新書)を増補改訂したもの。教科書としての利用も考え読みやすく書かれている。

序章 イスタンブルに民族問題を見る

第1章 トルコ民族とは何か

第2章 ペルシア・イスラーム世界への道

第3章 東方キリスト教世界のトルコ化

第4章 未完のトルキスタン国家

第5章 アゼルバイジャン 二つの顔

第6章 変転するトルコ人の民族意識

終章 灰色の狼はよみがえるか

本書は,トルコ系遊牧民の民族移動の歴史を追いながら,それを現代の民族問題(アゼルバイジャンのナゴルノ・カラバフ紛争やトルコのクルド人問題など)につなげて,ユーラシアに展開するグローバル・ヒストリーをできるだけ有機的に比較史,関係史の視点を入れながら横断的な叙述している。また,コラムを挿入して読者の興味を引こうとしている。

文献案内もあり,トルコ民族史に関心のある読者が読む入門書として適している。

2009年6月23日 (火)

『北支 現地編集 回教及び回教徒』

Hokushi01『北支 現地編集 回教及び回教徒』(第一書房,昭和17年9月)

日中戦争が《大東亜戦争》に拡大すると,日本軍は中国大陸で戦線を拡大している。戦線が拡大すると,現地工作も並行して行われていた。とくに,華北のイスラム教徒に対する宣撫工作が行われるようになった。中国大陸には,回民(現在,回族)と呼ばれるイスラム教徒がいる。戦線が拡大すると,漢族(中国人)とは異なる,生活習慣を保持しているイスラム教徒を日本軍に味方につけようと工作活動が行われた。

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当時,そして現在でも中国のイスラム教徒に関して,一部の専門家を除いて,その存在について関心が払われることはない。この雑誌は戦時中の北京の回民生活やモスクを写真つきで紹介している。この雑誌はイスラム教徒の紹介記事だけであるが,おそらく北京でイスラム教徒に対する日本の工作活動があったと思われるが,そうのようなことは全く書かれてはいない。

Hokushi03 今となっては日本の対イスラム教徒工作とその成果についてはほとんど不明である。しかし,雑誌に記録された写真は,1940年代の中国のイスラム教徒を知る史料として価値がある。現在の中国でも,漢族の回族に対する偏見と差別意識は残っている。過去の偏見は今以上大きかった。このため,中国側が回族(回民)を撮影した写真はあまり多くはない。当時,全く意識することはなかったが,このような現地情報の紹介が貴重な史料となっている。

2009年6月22日 (月)

間野英二訳注『バーブル・ナーマ』(松香堂,1998年)

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間野英二訳注『バーブル・ナーマ』(松香堂,1998年,16000円)

間野英二・京大名誉教授は,中央アジア・ティム-ル王朝の王子で,インドのムガール朝の創始者であるバーブがチャガタイ・トルコ語で著した回想録『バーブル・ナーマ』の日本語全訳をした。バーブルが語る恋や酒の告白,辛辣な人物批評などは生き生きとした記述で読者を魅了する。

『バーブル・ナーマ』は,中央アジアのチャガタイ・トルコ文学の最高傑作とも言うことができ,シルクロードの歴史・文化・社会に関する情報の宝庫である。このような貴重な歴史書が難解な原文(チャガタイ・トルコ語)から日本語に全訳され,これを日本語で読めることは凄いことである。ただ,研究書であるため価格が高価なのが残念である。

間野教授は,この訳注以外に,『バーブル・ナーマの研究1 校訂本』,『バーブル・ナーマの研究2 総索引』,『バーブル・ナーマの研究4バーブルとその時代』を出版している。全4巻の研究である。このすばらしい研究成果により,間野教授は学士院賞を受賞し,ウズベキスタンから表彰されている。『バーブル・ナーマ』は有名な書籍であるため,ロシア,トルコ,独逸,仏蘭西,米国などの研究者がテキスト出版や翻訳を行ってきた。間野教授が全訳したことは日本の読者にとってすばらしいことであるが,バーブル・ナーマのテキストを校訂し,これをアラブ文字によって出版している。このテキストは世界の研究者が利用可能で日本の中央アジア・トルコ学の研究成果が世界のトルコ学研究に貢献している。このテキストは従来出版されたものよりも格段に優れている。今後,世界の研究者は間野教授のテキストを参照するのを必須とするであろう。

間野教授の研究成果は,京都大学の東洋学の伝統と言うことができるであろう。

ただ,残念なことに,『バーブル・ナーマ』(全4巻)は研究者以外に全巻を簡単に揃えられるような価格ではない。日本の読者に中央アジアのチャガタイ・トルコ文学の最高傑作を知ってもらうため,日本語訳だけでも平凡社の東洋文庫などから廉価版で出版されることを願ってやまない。

2009年6月21日 (日)

イランとアゼリー人

いまイラン大統領選挙で改革派と保守派が対立と衝突を繰り返している。改革派リーダーのムサビ元首相,保守派で最高宗教指導者のハメネイ師の両者はトルコ系のアゼリー人である。偶然であると思うが,両者はイランの東アゼルバイジャンのKhamenehという土地と結びついている。

イランは多民族多言語の国家である。イランには多くのアゼリー人が活躍しているが,多くのアゼリー人のアイデンティティーはシーア派ムスリムのイラン人である。イランでは,アゼルバイジャンという民族意識を意識させないためであろうか,少数民族の言語による出版や放送が行われていない。

イランは長い歴史,伝統そして文化が国家統合のアイデンティティーとなっている。国家統合の求心力が分離分裂の遠心力よりもはるかに強い。このため,アゼリー人,クルド人,トルクメン人などが独立国家を求める運動は小さい。

2009年6月20日 (土)

NHKアジア語楽紀行「旅するトルコ語」

NHK教育チャンネルにアジア語楽紀行という番組がある。アジア諸言語に中に「旅するトルコ語」とトルコ語もある。NHK教育チャンネルは長い間,語学というと英語・仏語・独語・露語・西語・中国語が定番となっている。最近では,アラビア語,イタリア語など言語の語種の幅も広がっている。

トルコへ旅行する人が増えて,トルコに関心をもつ人が増えている。トルコ語を学ぼうという人も増えている。テレビでトルコの風景や生活を見ながら,簡単なトルコ語が学べる。ただ,教師につかずに独学で勉強する人には,トルコ人の会話のテンポは少し早いかもしれない。ビデオに録画して繰り返して見ながら,トルコ語のテンポに慣れるしかない。

2009年6月19日 (金)

廣瀬徹也著  『テュルク族の世界』(東洋書店)

Hiroseturkzokunosekai 廣瀬徹也『テュルク族の世界 シベリアからイスタンブールまで』(東洋書店,2007年)

著者は初代アゼルバイジャン駐在日本大使を最後に39年間の外交官生活を終えた。トルコ語の専門官であった。外務省はアゼルバイジャン語がトルコ語に近いということで,廣瀬大使が誕生したのであった。外務省本省にあっても初代の新独立国家室長(現在,中央アジア・コーカサス室長)も歴任した。トルコのみならず,中央アジア・コーカサスの外交に携わった。

元外交官が生活・勤務経験に立って,著者が重要と感じてきたことを多少私見も交えて,幅広く論じている。著者は読者が気楽に読んでいるうちに,テュルク族を軸として西アジア・中央アジア・コーカサス地域全体の歴史と現状への理解を深めてもらうことを意図して本書を著した。この意図は成功していると思う。

著者は外交官生活の大半をトルコで過ごしている。トルコ語研修も3年間受けている。いまトルコに関して多くの書籍が出版されているが,内容的に軽いものが多い。外交官から見たトルコ外交や政治など,我々が知り得ないトルコ外交の裏面を書いた本を出して頂きたいと思う。

2009年6月18日 (木)

慶應義塾大学語学研究所編 『世界の言葉 何を学ぶべきか』

Sekainokotoba_3 慶應義塾大学語学研究所編『世界の言葉 何を学ぶべきか』(慶應出版社,昭和18年初版,昭和19年第2版)

戦時中に出版された本で,いまでは忘れられてしまった本がある。この本は何語を語ぶべきかを,専門家が簡明に説明している。執筆者たちは,戦後活躍し,後に碩学と言われる,錚々たる研究者たちである。主な執筆者を挙げてみると,

北京語(魚返善雄),チベット語(渡邊照宏),ビルマ語(矢崎源九郎),安南語(松本信廣),蒙古語(服部四郎),アラビア語(井筒俊彦),梵語(辻直四郎),巴利語(水野弘元),ロシア語(井桁貞敏),ギリシア語(高津春繁),独逸語(関口存男),英語(西脇順三郎)など。

戦時下という時代状況もあろうが,執筆者がみは言語を語るのに熱いのである。イスラム学で世界的な研究者になる,若き日の井筒俊彦もアラビア語に対する熱い想いを語っている。多くの言語に通じていた井筒俊彦は,アラビア語以外に,トルコ語,ヒンドスターニー語,タミル語についても書いている。アルタイ諸語に通じていた言語学者の服部四郎が執筆した蒙古(モンゴル)語に関する説明は,通時・共時的に要領よくまとめられ,いま読んでも参考になる。

こういう執筆者の一人でいいから,外国語を学んでみたかったと思う。

この執筆者の多くは,戦後に研究社から出版された『世界言語概説』(2巻)でも執筆し,各言語についてより詳しく客観的に冷静に説明している。学問への情熱を読んでいて感じるのは,『世界の言葉』の方である。いま,言語や語学の本を読んでいて余り面白いと感じないのは,変に客観性をいいものだと信じていて,学問への情熱を感じないからであろうか。

ところで,戦時中にはビルマ語を執筆していた矢崎源九郎は,戦後はデンマーク語などの北欧語の専門家となり,アンデルセンの童話を翻訳している。戦時中にビルマ語を研究していたのは,時代の要請に応えるものであったためであろうか。テレビに脇役としてよく見かける,俳優の矢崎茂は彼の息子である。

この本は,アジアの言語の紹介に力を入れている。この本で抜けているアジアで重要な言語は朝鮮語である。当時,朝鮮半島は日本の植民地で内鮮一体化と皇民化を推進していて,日本語教育を進めていた。そういう時期では,朝鮮語は日本帝國内の言語で世界の言語として学ぶという意識はなかったか,あるいは意識的にはずされたのであろうか。

2009年6月17日 (水)

トルキスタン自治政府元首班チョカイと日本外交官の会談

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 ムスタファ・チョカイ(チョカイエフ,チョカイオール 1890-1941年,生ペロフスク,没ベルリン)は,ロシア革命期に活躍したトルキスタン主義の政治家。1917年のロシア十月革命後,コーカンドに成立したトルキスタン自治政府の首班。トルキスタン自治政府がソビエト政権に打倒されると,バクー,イスタンブルを経由してパリに亡命した。以後,雑誌《ヤシュ・トルキスタン》(1929-39年,パリ)を発行し,トルキスタンの情報を提供し,反ソの立場から論陣を張った。帝政ロシアから逃れた中央アジアやコーカサスの亡命者たちと交流した。欧州在住の亡命トルキスタン人社会で大きな影響力を持っていた。ベルリンで病没している。夫人はロシア人であった。

昭和戦前期の外務省は,東トルキスタン(新疆)に関して,カブールの日本帝国公使館を通じて,ある程度情報を入手していた。しかし,ソ連の支配下に組み込まれた西トルキスタンの中央アジア情勢に関して,直接情報を入手することが困難であった。それで,欧州在住の中央アジアからの亡命者から中央アジア情勢の情報を入手しようとした。そのような亡命者の一人である,ムスタファ・チョカイとパリやジュネーブでたびたび面談している。

1938(昭和13)年61日付け在ジュネーブ宇佐美総領事発の外務大臣宛機密公信によれば,チョカイは宇佐美総領事と面談し,クルバンガリーやイブラヒムを利用するという,日本の対イスラム政策はパンイスラミズムで時代錯誤であると批判している。

チョカイは中央アジア近現代史で語られる人物であるが,亡命者チョカイと日本が外交官を通じて直接結びついていた。この組み合わせは当時は知られることはなかった。現在の外務省は、反体制政治家や亡命政治家と人脈を構築するような、インテリジェンス活動をしているのだろうか。このような活動があるとしても、外交文書が公開される数十年後にならないと、その活動の実態について知ることはできない。そのときは外交も歴史となっている。

2009年6月16日 (火)

タタールスタン共和国のカザン

Kazan ロシア連邦の中にタタールスタン共和国がある。その首都カザンである。住民の多くはタタール人である。タタール人はロシア語とバイリンガルであるため、日本人がここを旅行するとロシア人との区別がつかないが、彼らはタタール人としてのアイデンティティーを維持しようとしている。タタール人はイスラム教徒であるが、世俗主義が進んでいる。

数年に一度、《全世界タタール人会議》を開催し、ロシア、トルコ、ウクライナなど世界に散っているタタール人が集まり、連帯感を維持しようとしている。かつては日本のタタール人も参加していたが、いまでは参加者がいなくなった。かつてロシア革命の避難民として、タタール人が日本を含む東アジアにいたが、トルコなどに移住してしまい、いまはほとんどいない。日本人は全く気づいていなかったが、カザンという都市と日本がタタール人を通じて結びついていた時代があった。

最近、タタールスタン共和国からの留学生や日本人と結婚したタタール人が数は少ないが、タタールスタン共和国と日本の交流を進めたいそうである。日本人はロシア連邦の少数民族についてほとんど知らなく、ロシアの中にある多様性について知る機会が増えることを期待したい。

2009年6月15日 (月)

ナリマン・ナリマノフの死

Narimanov Azərbaycan Xalq Cümhuriyyəti Ensiklopediyası”(『アゼルバイジャン人民共和国百科事典』,2巻,バクー,2005年)が出版されている。日本では《アゼルバイジャン民主共和国》として知られている。アゼルバイジャン人民共和国は,1918年年5月28日から1920年4月20日まで存在した共和国。バクーでは,この共和国の歴史を明らかにするために百科事典が出版された。トルコ共和国を除いて,中央アジアなどトルコ系諸共和国では,アゼルバイジャンだけが出版活動が盛んになっている。

この辞典には,この人民共和国が崩壊した後も,同時時代に活躍して人物が掲載されている。ナリマン・ナリマノフ(1870年4月14日,トビリシ生-1925年3月19日,モスクワ没)が載っている。アゼルバイジャン人民コミサール幹部会議長の立場でロシア人,アルメニア人に対して,アゼルバイジャン人の地位向上と擁護に努めている。1923年,ロシア共産党中央委員会委員候補にも選出されている。

1925年,スターリンに呼ばれてモスクワに出かけるが,心臓麻痺で急逝してしまう。彼が死去してから,アゼルバイジャン人の立場が弱くなっていく。このことから,アゼルバイジャン人たちは,彼の死を暗殺だと信じる人が多い。

百科事典では,彼のモスクワでの死去について記載されていないが,彼の妻と息子がクレムリンに埋葬された彼に墓地の前に立つ写真が掲載されている。これについての説明もない。

この百科事典は,アゼルバイジャン人民共和国に関係した人物を網羅し,20世紀初頭のアゼルバイジャンを知る上で多くの情報を提供している。ナリマノフのモスクワでの死について言及していない一方で,この時代には直接関係のない,故ハイダル・アリエフ前アゼルバイジャン大統領やイルハン・アリエフ現大統領について詳細な記述(賞賛)があるなど,時代は変わったが,ソ連時代の記述の仕方を思い出してしまった。

2009年6月14日 (日)

マチャヴァリアーニ駐日グルジア大使

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6月12日,マチャヴァリアーニ駐日グルジア大使が横浜の「人形の家」にグルジア人形を贈呈した。人形の家には,世界各国の人形が展示されている。グルジアの人形も展示される。

大使はグルジアの初代駐日大使で,写真はご家族。

グルジアは日本を重視し,アジアで始めて大使を派遣した。コーカサスでは,アゼルバイジャンも大使を派遣している。アルメニアだけが大使館も大使館員もいない。

日本側もアゼルバイジャンのバクーに大使館を開設し,グルジアを兼轄してきた。最近,グルジアにも日本大使館を開館した。アルメニアだけがモスクワの日本大使館が兼轄している。

コーカサスとの関係は目立たないが,地味ではあるが少しずつ関係が出来ている。

2009年6月13日 (土)

アラビアのロレンスとオスマン軍の将軍

Josearabia ホセ・ファーラー(1909-1992年)が演じるオスマン軍の将軍がロレンスを拷問にかけ,ロレンスをもてあそぶ。このシーンにより,トルコ人の残虐なイメージが演出されている。非常にステレオタイプである。デビット・リーン監督の映画《アラビアのロレンス》では,オスマン帝国が悪の帝国であるイメージ創出に成功している。英国人が思うように,悪の帝国であったのであろうか。悪の帝国であったら,600年も続かないと思う。

《ミッドナイト・エクスプレス》でも同じだが,欧米の監督が撮る映画では,いつでもトルコ人に対して偏見がある。

アラブ人や英国が善で,オスマン帝国が悪。このためにトルコでは長い間,映画「アラビアのロレンス」は上演禁止であった。

ロレンスが謀略活動に従事していた同じ時代,オスマン軍に従事していたムスタファ・ケマル(後のアタテュルク)はまだ無名の将校であった。当時,両名とも無名であったが,ロレンスは米国人ジャーナリストの演出で有名になる。

第1次世界大戦後の独立戦争で,ムスタファ・ケマルは欧州列強の植民地主義の野望に対して,死力を尽くして抵抗する。どうみにて,ムスタファ・ケマルのほうが英雄だと思えるのだが…。

2009年6月12日 (金)

アルタイ学者ポリワーノフの粛清

Polivanov 「polivanov.pdf」をダウンロード

言語学者エフゲニー・ドミトリエヴィッチ・ポリワーノフの写真,逮捕前と逮捕後の写真。

スターリンによる19371938年の粛清は,ソ連の学問にとり大きな損失を生じさせている。さまざまな学問分野での一流の研究者や先覚者を失った。ポリワーノフ(18911938年)もそのような学者の一人であった。ポリワーノフは数十の言語に通暁していたと言われている言語学者であった。彼は1914(大正3)年と1915(大正4)年に日本に短期留学し,日本の方言を研究している。ペテルブルグ大学で日本語研究を続けた。

ロシア出身の言語学者、ニコラス・ポッペの回想録によれば、ポリワーノフの講義は非常に優れたものだったが、その風体は「スラム街から来た浮浪者」のようだったとのことである。アルコール中毒者、麻薬常習者であり、泥酔して女子学生の部屋に侵入するなど不祥事が絶えなかった。片腕がなかったが、泥酔して市電のプラットホームに倒れた時に電車に轢かれたためである。言語の天才であった彼は,酒乱であるなど生活態度でも破天荒であったようだ。

1917年のロシア革命後,ソ連体制下でも言語の歴史的発展について独創的な論文を数多く執筆した。しかし,ソ連当局の意図には迎合しなかったので,ウズベキスタンのタシケントに異動させられた。中央アジアにおいて,ポリワーノフはトルクメン語など中央アジアのトルコ系諸語の言語研究でパイオニアとなっている。ポリワーノフは言語の天才であり,言語研究において独創的であった。

1937年に「日本のスパイ容疑」で逮捕され投獄された。1938年1月25日,ポリワーノフはモスクワの刑務所で獄死した。彼もスターリンによる粛清の犠牲者であった。日本語研究者でスタートし,中央アジアのトルコ系言語の研究で終焉を迎えさせられた。粛清された彼が残したトルクメン語の研究論文は今でも優れた業績であるが,日本では彼の学問を理解し評価できる人はほとんどいない。

ポリワーノフが日本のスパイとして告発され,言語研究者がスターリンの粛清によって殺された。スターリンの狂気は,言語研究者を反革命としてレッテルを貼った。粛清されていく研究者を横で見ていた研究者たちは,生き残るためソ連共産党の指導方針に迎合するのであった。ソ連の狂気が全ての学問に影響を与え,学問の良心を失わせていった。

2009年6月11日 (木)

1935年 神戸オリエンタル・ホテル

Orientalhotelkobe19350915 写真は,1935(昭和10)年9月15日,神戸オリエンタル・ホテルでアブドルアジズ元全インド・ムスリム連盟会長を来日を歓迎するために開催された夕食会を撮影したもの。

アブドルアジズ元全インド・ムスリム連盟会長は,神戸モスク完成を祝賀するため来日した。

神戸は幕末開港以来,貿易港として栄えている。神戸には多くの外国人が居住してきた。当時,大英帝国のインド帝国のインド商人がインド・東南アジア・東アジア間の貿易ネットワークを利用し活躍していた。彼らの貿易ネットワークが神戸と結びついた。インド貿易商人の中に多くのイスラム教徒もいた。

神戸在住のインド系イスラム教徒たちが礼拝所としてモスクを建設した。東京のモスクが日本の対イスラム政策(当時,「対回教徒対策」)と直結していたのとは対照的に,神戸モスクは神戸在住のイスラム教徒や海外のイスラム教徒たちの喜捨によって建設された。

戦後,神戸モスクは神戸在住のイスラム教徒によって維持されていくが,東京モスクは土地所有紛争などトラブルが続いている。神戸モスクが純粋にイスラム教徒たちの喜捨によって建設されたのに対して,東京モスクでは戦前の利害関係が戦後まで引き継がれてしまった。

2009年6月10日 (水)

スターリンの生地 ゴリ

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写真はグルジアのゴリ市のロシア軍占領前の市街地風景である。

南オセチアでのグルジア・ロシアの衝突後,ロシア軍がグルジア各地に進撃して占領したことはまだ記憶に新しい。ロシア軍はグルジアへの懲罰を意味したのであろうか,建物,港湾,鉄道,道路を容赦なく破壊した。グルジアのインフラを破壊した。破壊と略奪が繰り返し行われた。いつもでも戦争での被害者は市民である。グルジア市民も南オセチア市民も戦争の被害者であった。

グルジアのゴリは,スターリン(これはペンネーム)でグルジア名ヨシフ・ジュガシュヴィリの生誕の地である。グルジアでは,グルジアの知識人を粛清したスターリンの人気はないが,生地ゴリだけは例外であった。今回のロシア・グルジア戦争では,ロシア軍が占領した。ゴリ市役所前にはスターリンの巨像があったが,今回の衝突でどうなったであろうか。ロシア軍がスターリン像を破壊したかどうかは伝わっていない。

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ゴリにはスターリン博物館がある。写真はスターリン博物館の横に展示してあった,スターリンがソ連各地への移動に使用した客車である。係員が内部まで案内してくれた。ゴリでも略奪と破壊が起きたというから,スターリン博物館も無事ではなかったかもしれない。

ロシアではスターリンへのノスタルジアがあるが,ロシア軍の占領軍兵士がスターリン博物館を略奪したか,あるいは保全したかどうか,知りたいものだ。ロシアにとって不都合なニュースはロシアにはいつでも伝わらない。いつの時代にも正義の戦争という言葉は胡散臭い。

2009年6月 9日 (火)

前田弘毅 『グルジア現代史』(東洋書店)

Maedagruziya 前田弘毅『グルジア現代史』(東洋書店)

ユーラシアブックレットのシリーズで『グルジア現代史』が出版された。著者はグルジアに長期留学した経験のある研究者である。グルジア語,ペルシア語に堪能である。グルジアを歴史的にイラン・ペルシア文化圏の視点で研究している著者が,グルジアの現代史について,簡潔に説明してくれている。

サーカシュヴィリ・グルジア大統領は,コーカサスにおいて外交では親米路線を続けている。南オセチアでの緊張が武力衝突に発展し,ロシア軍による猛攻により首都トビリシに迫るまでとなり,ロシア軍がスターリンの生地ゴリ市を占領したことは記憶に新しい。

このような衝突を起こした当事国のグルジアを理解する書籍や情報が少ない。『グルジア現代史』は2003年の《バラ革命》によるシュワルナゼ大統領の失脚とサーカシュヴィリの政権奪取について要領よく説明している。当初,改革で腐敗を一層しようとした現政権下でもネポティズム(身贔屓主義)が横行しつつある。現政権の明暗の部分も明らかにしている。

グルジアやコーカサスに関して,その他にも新書など書籍が出ているが,現地滞在を有する堅実な研究者が現した『グルジア現代史』は,グルジアの動きを理解する上での好著である。著者のグルジアに対する熱い思いが引き続き,現代グルジアに関して政治経済・言語文化など日本にとって知ることが難しい地域を解き明かしてくれることを希望する人は多いと思う。

2009年6月 8日 (月)

「服部四郎ノート」内容一覧

東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所から発行されている『アジア・アフリカ文法』(31号)に《「服部四郎ノート」内容一覧》が掲載されている。故服部四郎博士(文化勲章受章者,東大名誉教授,1908年―1995年)の学生時代,大学の講義,研究・調査で使用したノート類が数多く,ご長男のお宅に残されている。これらのノート類が分類され,その概要が分かる。ただし,諸事情により公開されていない。

生前の服部四郎教授や奥さんのマヒラさんに何度かお会いする機会があった。服部先生から研究に関する貴重なお話を伺うことができた。先生は言語学の泰斗で,特にアルタイ諸語の研究では世界の研究者をリードしていた。先生が語る言葉は学問のみであった。

《「服部四郎ノート」内容一覧》を見ていて,故服部四郎博士の関心が非常に広かったことが分かる。奥様がペンザ出身のタタール人であったこともあり,タタールに関して,言語のみならず,歴史や政治動向にも関心があった。たとえば,《「極東鉄道問題」アヤズ・イスハキ,19341021日 海拉尓にて》,《「反コミンテル運動」アヤズ・イスハキ,193718日「民族旗(ミルリバイラク)」(奉天発行,タタール語新聞)》,《吾が民族・文化的独立宣言の満二十年記念日》が目録に掲載されている。

実物を見ていないので,何ともいえないが,おそらくタタール語のパンフレットの翻訳,奉天(現・瀋陽)発行のタタール語週刊新聞『ミッリー・バイラク(民族の旗)』の翻訳であろう。ここに登場するアヤズ・イスハキは,タタール民族主義者で1933(昭和8)年に欧州から極東在住タタール人の組織化のために極東にやっきた。言語研究者であった,若き日の服部四郎博士は,いままで知られていなかったが,タタール民族に関して幅広い関心があったことは間違いないようだ。

生前,言語学しか語らない碩学であったが,残されたノートのタイトルを見ていると,その関心分野はずっと幅の広いものであったようだ。20世紀,日本が輩出した最高の言語学者,知の巨人の全貌を明らかにするため,服部四郎博士のノートが公開されることを望む者は私ばかりではないと思う。

2009年6月 7日 (日)

アタテュルク・ダム

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トルコの南東部は歴史的に水不足のため開発が遅れていた。トルコはアタテュルク・ダムの建設を国家事業として実施した。このダムが出来たことでトルコの南東部は,肥沃な大地に変わった。水が引かれて農業生産が盛んになった。

ユーフラテス河の水がトルコで取水されると,下流部のシリアでは水が少なくなっている。国際河川で上流部での水の取水や貯水が下流に位置する国には大きな影響を与えている。

21世紀,水問題が大きくクローズアップされている。これは農業,飲料水など生活に直結しているからであるが,国際河川から生じる諸問題について,現代日本で理解するのは難しい。しかし,日本でも水争いが江戸と明治時代などで頻発していた。いまでは水は農業用水などで水利として,地域の権利(あるときは既得権益)になっている。

国際河川の管理でうまくいっているのは欧州ぐらいである。アジア,中東,中東アジアでの国際河川には未解決の問題が山積している。

2009年6月 6日 (土)

ビシュケク・マナス空港の米軍機

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キルギスタン大統領は米軍駐留の延長を認めないと発表し,ロシア寄りの姿勢を明確に示した,米国にとって対アフガニスタン作戦を展開する上で痛手であろう。しかし,その後の進展については続報がないことから,米国も外交交渉を続けているのかもしれない。

2004年にキルギスタンを訪問した際に,ビシュケク空港の待合室から米軍の輸送機の姿を見たとき,対アフガン作戦の補給基地として,ビシュケク空港の重要性を認識することができた。当時,中央アジアと米国の接近を実感した。

中央アジア・米国・ロシア間の駆け引きは続いているが,日本には情報も少なく,当事者間の外交が明らかになることはない。中央アジアは現在でも大国の動静に翻弄されている。

2009年6月 5日 (金)

アラビアのロレンス

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6月2日,NHKのBSハイビジョンで「アラビアのロレンス」をテーマに番組が放映されていた。。吉村作治・サイバー大学学長,大河原知樹・東北大学准教授が解説していた。アラビアのロレンスは忘れられてはまた取り上げられる人物である。それだけ魅力と矛盾の多い人物であろう。

ロレンスの人となりを歴史家やイスラム研究者の立場だけではなく,精神分析や能神経科学の心理学者や神経医学者による話を聞いてみたいものだ。彼の戦後の行動も戦争によるPTSDではないのか。そういう分析の視点で話がでてこないのも,ロレンスの英雄像を破壊したくないからなのであろうか。

テレビの番組でも取り上げられ朗読されていた,T.E.ロレンスの自著『智慧の7柱』が全5巻で平凡社東洋文庫から最近出版されてしいる。この翻訳は,1922年オックスフォード版の完全本からの全訳である。訳者のお陰でロレンスの韜晦な英文を日本語で読めるようになっている。

デビット・リーン監督の映画《アラビアのロレンス》の影響もあると思うが,ロレンスの翻訳やロレンス関連本が多く出るのはアジアでは日本ぐらいである。日本ではロレンスに関心のある層が厚い。中東イスラム世界とは縁遠い日本人がロレンスに関心を持つのも興味深い。もし,イスラム世界にもっと近かったなら,ロレンスにロマンスを感じることがあるのであろうか。

20年前にロンドンの古本屋を覗いたとき,『智慧の7柱』の初版限定150部の稀覯本を見せてもらったことがあった。その値段は個人が買えるような値段ではなく,乗用車が買えるような値段であった。店主が大事そうにページを開けてくれたことを思い出した。しかも,そのとき稀覯本が2冊もあった。その1冊は有名な政治家が元の持ち主で書き込みがあった。この2冊は今頃ロレンスファンの持ち物になっているのであろうか。このような高価な稀覯本は購入できなかったので,その後ロンドンで出版されたオックスフォード版の『智慧の7柱』を購入した。

2009年6月 4日 (木)

Ali Merthan Dündar, Japonya’da Türk İzleri, Ankara, 2008.

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Ali Merthan Dündar, Japonya’da Türk İzleri, Bir Kültür Mirası Olarak Mançurya ve Japonya Türk-Tatar Camiler, Ankara, 2008, 272p(『日本におけるトルコの足跡,文化遺産として満洲と日本のトルコ・タタール・モスク』) 

日本や旧満洲に存在するモスクの歴史について記した書籍がトルコで出版された。著者はアンカラ大学日本学科の准教授で,戦前の日本・トルコ関係史や対回教徒政策を研究している。日本語やタタール語の史料を読み解いて,ハルビン,神戸,名古屋,東京のモスクの歴史とその建設にかかわったタタール人コミュニティーについて明かしている。書籍の表紙は,今は取り壊されてない旧東京モスクをバックにタタール人婦人たちがポーズをとる写真である。この貴重な写真も著者がトルコに移住したタタール人から提供を受けている。

ロシア革命後,ロシアから満洲に多くの避難民が流入した。その避難民にイスラム教徒もいた。イスラム教徒たちの多くはタタール人であった。彼らは金曜礼拝の場所として,ハルビンにモスクを建設している。避難民の彼らには財産もなく,なけなしの金を醵金し,モスク建設では自ら汗を流して,モスクを完成させている。タタール人たちの移動は日本にも及ぶ,東京・名古屋・神戸・熊本などにコミュニティーをつくりながら生活していた。日本でも東京と名古屋にモスクを建設している。名古屋モスクは米軍の名古屋空襲で焼失し,その後再建されることはなかった。その名古屋モスクの短かった歴史も日本語史料に基づいて書かれている。

著者は日本や旧満洲からトルコに移住したタタール人家族を訪問し,残された写真や文書を収集している。日本や旧満洲で出版された雑誌をリプリントしたいとのことである。日本や旧満洲に滞在したタタール人たちの歴史を追い求めている。我々が見落としている,マージナルな人々の歴史に明らかにしている。戦前の日本人が現代以上にイスラム教徒と熱く接していた。

2009年6月 3日 (水)

ハイバル峠とパキスタン・アフガン国境(続き)

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ハイバル峠はアフガニスタンとパキスタンを結ぶ要衝地点である。ここにかかる橋が爆破されたが,これによりアフガニスタンへの陸路の物資輸送が困難になっている。

この国境地点で写真で写っている鉄柵が国境線となっている。パキスタン側からアフガン側を撮影した。パキスタン西北辺境州のある部族長の後ろ姿がこの鉄柵の前に写っている。彼の案内があったので国境を見学できた。この国境線でパキスタンから10歩ぐらいアフガニスタンに越境した。

海洋国家・日本には国境線がないので理解しにくいが,国境はその地域の国際関係を理解するのに役立つ。

2009年6月 2日 (火)

ハイバル峠通過後のアフガン・パキスタン国境

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写真はアフガン・パキスタン国境を往来する人々の様子である。門にパキスタンの旗が書かれている,こちら側がパキスタン領。門の向こうがアフガニスタン領である。建物の上にアフガニスタン国旗が翻っている。数年前にペシャワールから現地のA部族の部族長の案内でハイバル峠を越えて,この国境まで見学した。自動車には護衛のため小銃を携行した警官が同乗した。パキスタン西北辺境州では,パキスタン中央政府が国道周辺だけを管理して,それ以外は現地部族による自治が行われ,政府の行政権が及ばない。

この国境を往来する人々はアフガニスタン領とパキスタン西北辺境州にすむ地元民である。往来する人々はパスポートを提示することもなく,チェックも受けずに通過している。

部外者や外来者が気づかれずに,ここを通過できるのかと案内してくれた部族長に質問してみた。「それは無理だ。よそ者はわかる」と応えてくれた。アルカイーダなどよそ者がここを通過するのは無理で国境を越えるには,現地の案内をともなって山道を通るしかないことが分かった。

ハイバル峠にある橋が爆破され,外国人がこの国境を見学するのは無理となっている。

2009年6月 1日 (月)

カザフスタンの日本人墓地

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カザフスタン共和国のアルマトゥに日本人墓地がある。第2次世界大戦後,ソ連は旧満洲を中心に50万の日本人将兵を捕虜として,シベリア,中央アジア,コーカサスに連行した。第2次世界大戦によって不足した労働力を日本人捕虜の強制労働により補おうとした。

日本軍の蛮行ばかり宣伝され,いわゆる知識人にソ連や共産主義を礼賛する人が多かったので,ソ連の蛮行は長く隠蔽され語られることがなかった。

カザフスタンに連行された日本人捕虜は,ダム建設,道路工事,工作など強制労働に従事した。事故や病気により死亡した日本人が埋葬された,この日本人墓地では,ひとつの墓石に数名が埋葬されている。墓石には墓碑銘もなく,誰の墓かも不明です。遺族が訪れても,故人の墓を特定することはできない。

中央アジアで斃れた日本人の墓地のいくつかは,いまでは所在不明になってしまったものもある。中央アジアと日本の関係を考えるとき,中央アジアで,日本に帰国できず斃れた日本人の英霊のことを忘れてはならないと思う。

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