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2009年7月

2009年7月30日 (木)

シルクロード 文字を辿って

Silkroad02 京都国立博物館特別展覧会《シルクロード 文字を辿って ロシア探検隊収集の文物》2009年7月14日-9月6日

いま,京都博物館での特別展覧会が開催されている。戦前は京都帝室博物館と呼ばれた,重厚な煉瓦造りの建物の中で<ロシア探検隊収集の文物>が展示されている。

全世界に5万点もあると言われる敦煌を中心とした西域出土の文献は,イギリス,ロシア,フランス,中国に所蔵されているものが世界4大コレクションと言われている。

この展示会では,ロシア・サンクトペテルブルクにあるロシア科学アカデミー東洋写本研究所に所蔵されているロシア探検隊が敦煌や中央アジアで収集した貴重な文献が展示されている。

今回の展示では,コータン・クチャ・カラシャフル,トルファン・敦煌・カラホトで発見された,古代ウイグル語,西夏語,トハラ語,漢文など,さまざまな文字の文献が約150件が展示されている。これら優品な文献は世界的に貴重な文献である。これらの文献がロシア国外で公開されるのは,本当にまれである。ほとんどが日本初公開。

中央アジアの文化が歴史的に豊かであったことを目にすることができる展示である。この特別展覧会での展示物を詳しく知ることができる図録が博物館内において2000円で販売されている。

2009年7月28日 (火)

新疆での衝突事件と漢族

JR東海の関係会社が出版している雑誌《WEDGE》8月号で,次の記事が掲載されている。

王柯(神戸大学大学院教授国際文化研究科教授):暴動に揺れるウイグル「中国化」図る少数民族統治の実態。

漢族の教授が書いた内容として穏当なものである。筆者が日本を活動の場としていることもあるからか,中国の教授たちが中国共産党の方針に沿った発言と比較すると,ずっと客観的で穏健である。

筆者は,「経済の発展,漢民族社会への接近に伴い,ウイグル社会に漢語(中国語)学習のブームが起きている。中国政府はウイグル地域で少数民族語と漢語の「二言語教育」を長期安定実現の手段として重視して推進するが,歓迎されているのも事実である。「二言語クラス」は,どこでも学校も定員を上回る盛況である」と書いている。

本当に《歓迎》されているのだろうか。新疆ウイグル自治区の地方都市を回ってみて,《歓迎》されているとは思えなかった。ウイグル人の知識人たちは,ウイグル語で大学での高等教育も受けられなく,漢語教育を否定的にみていることが多かった。ウイグル語という民族のアイデンティティーを維持するlことに制限を加えている方がずっと問題だと言っていた。

また,筆者は「中国の少数民族政策は民族の絶滅,自生自滅に追い込むような政策ではない」と書いている。政策はその通りであろう。しかし,少数民族に対して,実際に行われている政治はどうみても弾圧政治でしかない。事件から時間が経過しても,日本からウルムチへの国際電話やメールが相変わらずつながらない。このようなことでは中国共産党にとって都合の悪いことを隠していると言われても仕方がないであろう。

2009年7月19日 (日)

新疆大学と少数民族

ウイグル自治区共産党が制定した綱領によると,少数民族言語を第一とし,漢語を第二とすることになっている。しかし,現実にはウイグル語の表示や看板がウルムチ市でますます少なくなっている。少数民族の言語や文化は全く尊重されなくなっている。

新疆ウイグル自治区は,「ウイグル」という名称を冠しているが,ウルムチなど大都市は漢族の都市となっている。漢語(中国語)の読み書きができないウイグル人はたくさんいる。少数民族が大学に入学するのは非常に難しい。新疆のトップ大学である新疆大学を訪問してみると,ウイグル人など少数民族の学生姿を見かけることはない。自治区綱領は実態を反映したものではない。ウイグル語で高等教育をかつて受けることができたが,いまでは受けることはできない。ウイグル人の先生がウイグル語ではなく,漢語で授業をしなければならなくなっている。

新疆大学では,漢族の学生のほとんどが少数民族の学生と交流する機会を持たない。中国政府が民族共生を唱えても,全くの実態のない,お題目に終わっている。若者の間でも,漢族と少数民族の溝は埋まるどころか,今回の衝突事件を通じて拡大するばかりである。

2009年7月15日 (水)

トルコ共和国とウイグル人

トルコのエルドアン首相が新疆での事件をジェノサイド(大量虐殺)だと批難した。同じイスラム教徒が殺害されているこに怒ったのであろう。エルドアン首相が率いる与党AKPはイスラム色の強い政党である。エルドアン首相は中東和平でもイスラエルを非難するなど,弱者の立場にあるイスラム教徒に対して同情的である。

エルドアン首相の発言を聞くと,トルコの政治家がトルコ系のウイグル人や中央アジア・コーカサスのトルコ系諸民族に対して,いつでも関心があるように思えてしまうが,実際はそうではなかった。トルコ共和国建国の父アタテュルクは,欧州列強から侵略を受けた経験から,「内に平和,外に平和」をスローガンに掲げてトルコの独立に腐心した。彼の後継者イノニュ大統領もその方針を継続し,中央アジアのトルコ民族とトルコ人が連帯するような汎トルコ主義運動を弾圧した。イノニュ時代の1950年代までトルコは中央アジアのトルコ系諸民族を亡命者としての受入れに否定的であった。

1950年代,イノニュ政権からメンデレス政権に変わると,東西冷戦期にあったメンデレス首相は,ソ連など共産圏の抑圧下に生活するトルコ系諸民族に対して同情的であった。それまで亡命受け入れに消極的で,そのためパキスタンに長年滞在を余儀なくされていたウイグル人やカザフ人の避難民をメンデレス首相はトルコ受け入れを決定した。偶然であろうか,エルドアン首相がトルコにイスラム色を強めている政権であるが,メンデレス政権もイノニュ時代の世俗主義からイスラムへの回帰を認めている。1960年,メンデル首相が軍事クーデターで処刑されると,軍事政権は中央アジア・コーカサスから再度多くの避難民を受け入れることはしなかった。

トルコには,1950年代のメンデレス政権時代にトルコに亡命したウイグル人やカザフ人とその家族の子孫がイスタンブルを中心に数万人が生活している。とくに,イスタンブルのゼイティンブルヌ地区に集中的に定住している。

トルコ共和国で世俗主義(「セキュラリズム」)を推進した政治家や軍人たちはアナトリア出身よりもボスニア,マケドニアなど東欧出身者たちが多かった。イスタンブル在住のビジネスマン,ジャーナリストも同様であった。このようなこともあってか,トルコ人は中央アジア・コーカサスへの関心が一般的に低かった。1991年のソ連崩壊による中央アジア諸国独立でも当初はトルコ人は関心が高かったが,いまはそれほどではない。

トルコ人は歴史的にモンゴル高原から移動を開始し,中央アジアそしてアナトリアや東欧へと移動し定住してきた。そして,現地の人々と混血してきた。このこともあるのかもしれないが,トルコ人はEU加盟という西方を目指している。他方,中央アジアなどトルコ系諸民族と東方との連帯を目指すという思考はどうもあまりなかった。

こう考えると,エルドアン首相の発言は,イスラム教徒の連帯を目指す与党AKPなどトルコのイスラム勢力が東方回帰を目指す,新しい潮流の始まりかもしれない。

2009年7月14日 (火)

新疆の錫伯族

中国新疆ウイグル自治区には多くの少数民族がいる。その一に錫伯(しぼ)族がいて,約3万5,000人が居住している。その内,約1万9,000人が新疆西部の伊犂(ウイグル語名グルジャ)市近郊の《チャプチャル・錫伯県》に住んでいる。

この錫伯族は,もともと新疆にいた民族ではない。清朝の乾隆帝がジュンガル(準部)を平定すると,1764年に盛京(遼寧省瀋陽市)の錫伯人の一部が伊犂に派遣され,駐防兵となった。家族や馬をつれて,満洲盛京からモンゴル草原を経由して伊犂まではるばる移動した。満洲に残った錫伯人もいて,現在中国東北地方の遼寧省に約14万がいる。

《チャプチャル・錫伯県》の錫伯族は,8集落に別れ,農業や牧畜で生活している。錫伯族は清朝滅亡後100年近くも経過している現在でも,清朝の軍事組織である満洲八旗の軍事単位の《ニル》と呼んでいる。また,多くの錫伯人が家系に誇りを持っており,系図や氏族意識を大切にしている。

少数民族の錫伯族は,清朝の公用語であった満洲語の口語である錫伯語を使っている。満洲語は清朝の漢化により使われなくなり,清朝滅亡により,使われなくなったが,新疆には《生きた満洲語》が残っている。中国東北地方の満洲族,錫伯族など漢化してしまい,満洲語は死後となっている。現在,遼寧省にいる約14万の錫伯人は満洲語も満洲口語(錫伯語)も出来ない。アイデンティティーとしての言語を失っている。

新疆の錫伯族は,新疆の辺境地帯に隔絶されていたため,民族のアイデンティティーを維持することができた。現地には観光客を呼び込むのに,瀋陽の故宮をまねて錫伯族博物館を建設している。展示品を見学していて,現在の錫伯族と結びつくものは少なかった。現地の書店には錫伯語の書籍があったが,出版部数は多くて300部程度であり,錫伯族は書籍として中国語の本を読んでいるとのことであった。錫伯族は,《チャプチャル・錫伯県》に居住している限り,口語として錫伯語を維持していくであろう。書き言葉としての錫伯語が生き残るのは厳しい状況にあるように感じだ。

司馬遼太郎は,シルクロード撮影で伊犂まで出かけて,《チャプチャル・錫伯県》を訪問したかったが,当時外国人に解放していなかったため,訪問することができなかった。そのため,錫伯族が司馬遼太郎に会いに来た。戦前,伊犂から教育をうけるため旧満洲に来て,後に役人になった錫伯人がいる。戦後,日本移住し帰化した玉聞精一という人物である。彼の満洲語口語(錫伯語)に興味をもった服部四郎と山本謙吾は,彼の話す錫伯語を記録し,『満洲語口語基礎語彙集』というりっぱな研究書を出版している。司馬遼太郎も新疆から日本まで移住して玉聞精一に興味を持っていた。

新疆の錫伯族と日本が結びついたが,これは新疆に隔絶して生き残った満洲族を知りたいというロマンによるものであったのかもしれない

2009年7月13日 (月)

新疆での民族衝突について

新疆ウイグル自治区での民族衝突に関するTVニュースを見ていて,民族問題の複雑さをかいま見ることが出来た。

ウイグル族の暴動に反発した漢族がウルムチの大通りを包丁,スコップなどをもってデモするシーンが放映されていた。漢族に混じって白い帽子をかぶった回族(イスラム教徒の漢人)も参加していた。

ウイグル族と回族は,同じイスラム教徒であるが,歴史的な経緯もあって,昔から関係がよくはなかった。新疆にもウルムチ市に多くの回族が生活しているが,ウイグル人と会話している姿を見ることはない。知り合いのウイグル人に聞いてみても,回族とはほとんど会話することはないとのことであった。回族は回族のコミュニティーでまとまっている。

回族が漢族と一緒に反ウイグルのデモに参加していたのを見ていると,イスラムという宗教の下にウイグル族と回族が連帯する可能性はないようである。ウイグル族と回族という少数民族間にも問題が存在している。漢族・少数民族の対立だけではなく,少数民族間の対立もあり,中国の民族問題は複雑で錯綜している。中国共産党は,民族問題を統治の道具として利用し続けるなら,将来も問題解決に至るのは非常に難しい。

2009年7月12日 (日)

Radio Free Asiaのウイグル報道

中国新疆ウイグル自治区で起きた事件は映像を見る限り激しい事件であったことがわかる。しかし,真相は相変わらず不明とも言える。

中国の報道は,ウイグル族に厳しく,漢族には贔屓しているのは明らかだ。チベットの時とも同じように,少数民族に厳しく,漢族には厳しくない。中華思想に基づいた支配原理であるから当然なことなのであろう。

米国ワシントンにはウイグル亡命人を組織した放送局がある。亡命ウイグル人が関わっている放送局であるから,中国の報道とは違う切り口で参考になる。次のサイトを参照。

        http://www.rfa.org/english/

ウイグル人など少数民族の問題を力で押さえれば,ますます憎悪の感情が残るだけで根本的な解決は不可能であろう。中国共産党が進める問題解決の方法は,漢族の大量移住により,民族別の人口構成を変化させようとしていることだけは確かなようだ。新疆のウイグル人など少数民族は,すでに漢族よりも少なく,本当の少数民族になっていると言う人もいる。

2009年7月 7日 (火)

新疆ウルムチでの衝突の犠牲者を悼む

新疆ウイグル自治区のウルムチでの大規模な衝突により,約140名以上のウイグル人が死亡したようだ。ウルムチは漢族の都市となっていて,ウイグル人はウルムチの人口の1割程度と言われている。ウルムチでは,ウイグル人が目立つ地区は限られている。ウイグル人が暴動を起こし,警官隊と衝突したのには,その背後にウイグル人たちに蓄積してきた不満が沸点に達して爆発した。

新疆ウイグル自治区は,ウイグルの名前が冠してあるが,農村部を除く,都市部は漢族が多数を占める自治区となっている。ウイグル人には就職,就学など多くの差別を日頃から感じていることは間違いない。ウイグル人は漢語(中国語)習得を強制されつつあるが,漢語を習得しても,それほどチャンスが現実にはないことにも不満がある。漢族のウイグル人への蔑視を屈辱と感じてきている。特に,ウイグル人の若者たちの不満は大きい。不満が自然に爆発してのであって,外国の扇動などはない。北京政府の公式表明では,新疆で衝突や暴動が発生すると,外国からの扇動と常の言われている。インターネットをサイバー警察で常時監視しているのだから,外国の扇動などないことは当局自身がよく知っている。

中国では,近年至る所で農民暴動,衝突が起きているが,多数の死者がでることはない。少数民族の暴動や衝突に対する,当局の容赦ない鎮圧の背後には,少数民族と漢族との対応に明らかに違うスタンダードが存在している。だから,このようにウイグル人には多数の死者が出るのであろう。正確な情報は当局からは発表されないのが常であるから,ウイグル人の死者はもっとおおいかもしれない。

中央アジアからの石油ガス・パイプラインが新疆を通過するようになり,当局は新疆の守りを固めることは間違いない。ますまつ強圧的となるであろう。今後も,漢族の中華思想的な少数民族蔑視がなくならない限り,残念ながらこのような衝突が発生する可能性は大きい。

2009年7月 6日 (月)

中央アジアは日本ではなく,中国に向いていく

今年10月には,カザフスタンから中国新疆への石油パイプラインが完成する。年末には,トルクメニスタンから中国新疆までガスパイプライン(トルクメニスタン東部から新疆まで約1800キロ)が完成する。中国向けの石油とガスのパイプラインが完成する。この大規模工事に中国は資金援助している。このパイプラインを通じて,石油とガスが中国に輸出を開始すれば,その収入が中国から中央アジア諸国に支払われる。中国マネーが中央アジアに流入する。

中央アジアは,「旧宗主国」ロシアと欧米が主要なプレーヤーとして,勢力や覇権争いをしてきた。パイプライン完成により,中国の影響力は中央アジアに確実に拡大する。日本外交が「中央アジア+日本」というような枠組みをつくって努力しても,中国マネーの攻勢にはなすすべもない状況になりつつある。

2009年7月 5日 (日)

諷刺詩人ミルザ・アラクバル・サービル(1862-1911)

Sabir アゼルバイジャン文学において,諷刺詩人ミルザ・アラクバル・サービル(1862-1911)は諷刺詩というジャンルで現在のアゼルバイジャンの人々に親しまれている。帝政ロシアの支配下にあったコーカサスの人々はロシアを直接批判することが出来ず,諷刺を利用することで帝政ロシアの支配を間接的に批判した。

帝政ロシアの圧政支配の時代,直接的なロシア批判ができず,間接的な手段を利用するしかなかった。検閲も厳しかったから,ロシア批判の文章は印刷されることはなかった。

サービルの名前は,アゼルバイジャン人からよく聞いていたが,外国人として,彼の詩を読んでみると,はっきり言って非常に難しく,分からない。アゼルバイジャン人たちは,サービルなどの諷刺詩を読んで分かるようだが,外国人には詩を理解するのは簡単ではない。アゼルバイジャンの文学史で有名で,アゼルバイジャン人がよく分かっても,外国人が諷刺文学を理解するのは至難の業である。サービルの時代,ロシア人も同じように理解するのは難しかったのであろう。だから,検閲をくぐり抜けたのであろう。

インターネットというメディアが発達しているおかげで,諷刺詩というような文学のジャンルは過去のものとなってしまった。直接的な表現で批判できる時代は幸せかもしれないが,諷刺詩による陰影に富んだ,高尚な文学はもう登場することはないのだろう

2009年7月 4日 (土)

周正清,周遠堂編『土耳其漢語詞典』(北京商務印書館)

Turkcecincesozluk 周正清,周遠堂編『土耳其漢語詞典』(北京商務印書館,2008年,2075頁)

中国には,トルコ系少数民族として,ウイグル人,カザフ人,キルギス人などがいて,言語・文学などの研究が行われている。ウイグル語漢語辞典,カザフ語漢語辞典などが出版されている。

トルコ共和国のトルコ語に関して,中国にはトルコ語辞典がなかったが,2008年に『土耳其漢語詞典』(トルコ語漢語辞典)が北京で出版された。中国人民解放軍外国語学院がトルコ語辞典を編纂した。

トルコ語単語の見出し語は約50,000語ある。りっぱな辞典である。トルコの辞典の多くを参照して編纂されるので,現代トルコ語のほとんどが網羅されている。トルコ語を学ぶ中国人(漢族)にとって,この辞典の刊行は朗報であろう。

日本人の美徳はチームワークと言われているが,トルコ語辞典に関して,トルコに関心のある研究者たちが結集して,トルコ語辞典を編纂しようという動きは全くない。21世紀勃興する中国の動きに脅威論があるが,学問でもそのエネルギッシュな活力と比較すると,残念ながら,日本の学問の活力が衰退しているように思えて,危惧感を抱いてしまう。

2009年7月 3日 (金)

タシケントとメスフ人

数年前,ウズベキスタンのタシケントに短期滞在したとき,メスフ人の運転手と偶然知り合った。メスフ(メスヘティア・トルコ)人とは,オスマン帝国が16-17世紀にグルジア南部のトルコ国境に近いメスヘティア地方を支配していた時代にイスラム化したグルジア人などをさす。第2次世界大戦中の1944年,スターリンはメスフ人に対独協力の利敵民族とのレッテルを貼って中央アジアに強制移住させた。同時期,同じ理由でクリミア・タタール人,チェチェン人,カルミュック(モンゴル)人も強制移住している。

メスフ人は着の身着のままで貨物列車に載せられ,車中は家畜のように劣悪で移動中に多くの人が死亡した。中央アジアでも劣悪な環境で生活したため,多くの人命が失われた。ヒトラーのユダヤ人のホロコーストのように,スターリンも民族絶滅を行おうとしていた。スターリンは,本名ヨシフ・ジュガシヴィリというグルジア人でコーカサスの諸民族について,モスクワのロシア人共産党員よりも熟知していた。モスクワのロシア人幹部なら,メスフ人の存在にも気づかなかっただろう。スターリンがメスフ人を強制移住の対象にしたのは,何か個人的な恨みでもあるのだろうか。これについては永遠の謎である。

1989年,ウズベク共和国のフェルガナ地方でウズベク人がメスフ人を大規模に襲撃する《フェルガナ事件》が発生した。事件後,大量のメスフ人難民がソ連国内に逃れた。その数は7万4000人と言われている。グルジアは彼らの受け入れに反対したので,メスフ人の祖国グルジアには帰還できなかった。1989年の《フェルガナ事件》はソ連末期の中央アジアで起きた事件であるため,その真相や原因について,いまでも不明である。

《フェルガナ事件》により,現在ウズベキスタンに残っているメスフ人は非常に少ない。たまたま一人のメスフ人と知り合ったが,彼の家族以外に数えるほどしかタシケントに残っていないとのことであった。メスフ人と知って,彼に母語で話してもらったが,彼の話す言葉を聞きながら,トルコ共和国のトルコ語に近いと思った。しかも古風なトルコ語であった。メスフ人は元もとグルジアにいて,アゼルバイジャンに地理的に近かったので,アゼルバイジャン語に近いのかと思っていたが,彼の言葉を聞きながら,アゼルバイジャン語よりもトルコ語の方に近いことが分かった。メスフ人はオスマン帝国時代にイスラム化していることから,トルコ人との接触が多かったのであろう。一人のメスフ人でメスフ人全体を想像するのは危険だが,中央アジアでメスフ人と会話できたことは面白い思い出となっている。

2009年7月 2日 (木)

アゼルバイジャン語とペルシア語

アゼルバイジャン共和国のアゼリー人たちは,会話で数字の80を“həştad”(ハシュタード)とよく言っている。この単語はペルシア語である。公文書,新聞,書籍では,数字80はトルコ系の“səksən”(サクサン)が文字言語として使われている。アゼルバイジャンでは歴史的に知識人などがペルシア語を使ってきてが,帝政ロシアの南下により,19世紀前半に北アゼルバイジャンがロシア帝國の支配に組み込まれると,ロシア語は支配階級や官僚(通訳官)を通じて学ばれるようになった。初等教育はマドラサで行われ,相変わらずアラビア語やペルシア語が教えられ,アゼルバイジャン語は教えられていなかった。

19世紀後半になって,帝政ロシアの支配が強化されると,ロシア語が知識人の言語となっていくが,ロシア語は西欧の思想や文学を学ぶ手段となっている。アゼルバイジャン知識人のロシア語習得がロシアを通じて,西欧思想と接近するようになる。まだ,アゼルバイジャンでは高等教育が整備されていなかったこともあり,ペルシア語はまだ外国語というより,アゼリー人の文化語であった。

それが,20世紀になると,アゼルバイジャンで初等教育,中等教育,高等教育が整備され,ロシア語とアゼルバイジャン語が使われ,教育の場でペルシア語が教えられなくなると,ペルシア語は急速に使われなくなった。これによって,イランのアゼルバイジャン人とは文化面で懸隔が生じていくようになった。

アゼルバイジャンでは,急速に使われなくなったペルシア語ではあるが,数詞のような日常使う言葉は口語として生き残っている。トルコ共和国のトルコ語もかつてはアラブ語やペルシア語を多く使っていたが,言語改革で排除していった。このため,口語でペルシア語起源の単語が日常生活で頻繁に使われる単語は限られている。トルコ語のように言語改革が行われなかったアゼルバイジャン語でも,その言語変化はこの100年間で緩慢ではあるが書き言葉で起きている。

2009年7月 1日 (水)

『中央アジア外交 試される地域戦略』(北海道大学出版会)

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宇山智彦,クリストファーレン・レン,廣瀬徹也編著『日本の中央アジア外交 試される地域戦略』<スラブ・ユーラシア叢書>(北海道大学出版会,1800

「豊富な資源と地政学的重要性で注目される中央アジアは,過去のしがらみにとらわれず日本の独自外交戦略が発揮できる場である。その理念・歴史・現状を,国内外の研究者や元外交官など多彩な執筆陣が様々な角度から論じる」と本の帯に書かれている。

第1部 中央アジア外交の理念

第1章 対中央アジア外交の概観 実務レベルでの政策立案者の視点から 廣瀬徹也

第2章 対中央アジア政策の推移 

    シルクロード外交から「中央アジア+日本」へ 河東哲夫

第3章 日本の中央アジアに対する関与をどう理解するか 

    日本の開発戦略の再評価 クリストファー・レン

第4章 ユーラシアへの「価値の外交」は定着するか  湯浅 剛

第2部 歴史・理論・地政学

第5章 対中央アジア外交の歴史的文脈と展望   宇山 智彦

第6章 対中央アジア協力の現状と課題  ティムール・ダダバエフ

第7章 上海協力機構 「反米」ゲームの誘惑に抗して 岩下 明裕

第3部 経済協力と支援

第8章 クルグズスタンは中央アジアにおける日本の最重要パートナーか? 

    エリカ・マラト

第9章 現代グローバル化の下での日本のエネルギー戦略 

    西アジア・中央アジアの場合 嶋尾 孔仁子

第10章 中央アジア地域の経済協力と紛争管理 

    北東アジア諸国の役割  ニクラス・スワンストローム

結語

この本は,日本外交が1991年のソ連崩壊後に独立した中央アジア諸国とどうつきあっていくか試行錯誤していた様子が分かる。故橋本首相が「新シルクロード外交」,麻生外相(2006年当時)が「自由と繁栄の弧」を発表し,中央アジアとの関係を深めようと努力していたことを読み取れる。しかし,戦略があったとしても,それが中央アジアに対して,戦術的に機能したか,あるいは成果があがったかについては,これからも検証が必要であろう。

昨日(6月30日),麻生首相は国際問題研究所で「安全と繁栄を確保する日本外交」と題して,中央アジアを起点にアジアの広域開発に日本が政府開発援助(ODA)を通じて積極的に支援すると講演した。「現代版シルクロード」を軸に,新興国との関係強化を進める新外交構想を提唱した。

日本が中央アジアを重視して頑張ろうとしても,ロシアと中国の中央アジアでのプレゼンスはもう非常に大きくなってしまった。中央アジアは国際外交の駆け引きが行われている。いまさら日本が入っていくのは難しいであろう。独立から20年近くも経過した現在では,中央アジアの首脳たちも政治的にしたたかであり,日本が手玉に取られるだけだと危惧する。中央アジア諸国は汚職で腐敗している。日本のODAが中央アジアの政治家や官僚の腐敗を手助けするだけで,現地の人々の幸福と繁栄に本当につながるか疑問である。それよりも中央アジアから様々な分野の若い人を日本が多く受け入れるような人材育成のほうがいいと思う。

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