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2009年10月

2009年10月16日 (金)

クリントン国務長官のカザン訪問

クリントン国務長官は,スイスでトルコ・アルメニア国交樹立議定書署名式典に参加し,そのあと2日間ロシアを訪問した。日本では全然報道されていないが,訪問2日目の10月14日のタタールスタンのカザンを短時間訪問し,タタールスタン大統領シャイミエフやタタール人の知識人たちと懇談している。

タタールスタン共和国は,ロシア連邦に中にあって,人口380万。その52.9%がタタール人(その大部分がムスリム),残りの民族はロシア,ウクライナなどで,人口の39.3%がキリスト教の正教である。タタールスタンは多民族多宗教が平和に共存している地域である。日本では知られることが少ないが,カザンは歴史的にイスラム法学者などムスリムの知識人を多く輩出している。現在でもタタールスタン科学アカデミーにはタタール人が多く,さまざまな分野で優秀な研究者がいる。そのレベルはロシアにおいて,モスクワとサンクトペテルブルグと並んでいる。

タタールスタンのイスラム教徒は,世俗的で穏健で,他の宗教と長年共存してきている。イスラム教徒が多文化多宗教の中で共存できないようなことが,欧米からのバイアスによってイメージされているが,それが間違っていることがタタールスタンの例を見れば分かる。

今回,クリントン国務長官が短時間ではありながら,カザンを訪問した意味は非常に大きい。米国はブッシュ政権でイスラムと対立の構造を作り出していた。イスラムに対して,非常にマイナスなイメージをつくり,米国とイスラム世界との対立を煽ってしまった。オバマ政権になって,イスラム世界と修復が米国の国益とって非常に重要だと気づいたに違いない。

クリントン国務長官がトルコ・アルメニア対立解消に仲介し,ロシアのカザンを訪問したことから,米国はイスラム世界でも世俗的・穏健なイスラムと手を結ぶことを戦略に考えたのであろう。その選択肢として,世俗主義国家のトルコ,多民族・多宗教が共存するロシアのタタールスタンを選んだ。

米国の外交は,国益にとり何が重要であるか,適確に判断し,適確な選択肢を選んでいる。このような外交のダイナミズムは日本の外交には残念ながらない。日本の外務省の中でクリントン国務長官のカザン訪問の持つ意味が理解できる外交官がいて欲しいものだ。

2009年10月15日 (木)

トルコ・アルメニアの国交樹立(続)

今月10日,スイスでトルコ外務大臣とアルメニア外務大臣が米国務長官,露外相,EU代表,スイス外相の立ち会いで国交樹立の議定書に署名した。トルコとアルメニアの国交が正式に樹立されるのは両国議会において,この議定書が批准されて正式に発効することになる。

トルコはアルメニア人ディアスポラが多く住む欧米から《オスマン帝国人のアルメニア人の大量虐殺》の謝罪を求められてきた。トルコは同じ時期に多くのトルコ人が殺されていると,常に反発してきた。トルコは,1960年代や70年代にトルコの外交官多数がアルメニア過激派に殺害され,それについては常に不問にされてきて,トルコが一方的にが批難されるのを我慢できなかった。トルコにとって,アルメニアと国交を樹立しなくても困らないという自負心があった。実際,経済的にアルメニアは困難な状況にあって,トルコとの国境を開いて欲しいという切実な願いがある。トルコとアルメニアには国交はないが,アルメニアの航空会社がイスタンブルに乗り入れ,多くのアルメニア人がイスタンブルを訪問している。これに対して,トルコ人はほとんどアルメニアを訪問しない。経済面でアルメニアがトルコを必要としている。しかし,海外のアルメニア人ディアスポラは,この現実をしらなく,いまだにトルコを敵視している。

トルコは今回の国交樹立議定書を署名するため,欧米に対して譲歩をしている。トルコとは親密なアゼルバイジャンの反対を押し切っている。アゼルバイジャンはアルメニアとナゴルノ・カラバフ紛争で領土紛争が継続し,アゼルバイジャンの立場からすれば,アルメニアによってナゴルノ・カラバフが占領されている。アゼルバイジャン国民は,今回のトルコがアルメニアと国交樹立したことに落胆と憤慨している。トルコ政府は,アルメニアとの国交樹立に舵をきった。トルコの与党AKPは議会で多数の議席を占めているから,議定書の批准は,最終的に承認されるであろう。

今回の批准に関して問題なのは,アルメニア側である。議会が与野党でこの問題で紛糾するであろう。もし,アルメニア議会が批准を否決したならば,トルコはメンツを潰されたことになり,両国の和解は困難になるであろう。トルコは欧米の外交当局に貸しをつくったことになるであろう。いまや,トルコは地域の大国としての自負心があるから,今回のアルメニアとの外交関係が樹立されなくても困らないという態度を示すに違いない。

2009年10月14日 (水)

Hind Ixtilalcilari

Fitrathindixtillilari Abdulrauf Fitət, Hind İxtilalcilarl, Grafenhainichen, 1944(『インド反乱者たち』)

第2次世界大戦中のドイツでは,トルコ系諸語の書籍が出版されている。著者フィトラットについては,小松久男氏の『革命の中央アジア』(東大出版会)が詳しく説明している。この書籍は,1923年のベルリンでアラブ文字により出版されたテキストを,トルコ学者ガベンと中央アジアからの亡命者Veli Kayum-Xanがラテン文字表記にして校訂している。

戦時中のドイツには,捕虜になったソ連軍兵士の中に中央アジア・コーカサスのトルコ系民族出身者がいた。この書籍を読んだのは捕虜たちだったであろう。フィトラットの書籍が選ばれたのは,彼の民族主義的な性格が反ソの読み物として適切だと思ったのかもしれない。

フィトラットについては小松氏が詳しく解説しているが,1944年当時スターリンの粛清により,すでにこの世にはいなかった。ソ連では長らく彼の書籍は禁書であった。再版されるのは,1991年のソ連崩壊後であった。

この書籍は出版に経緯については全く書かれていない。時代の背景を知らずに,この書籍を読むならば,トルコ学研究の資料の一つとしてしか理解されないだろう。この書籍は,戦争とトルコ学研究という,学問の戦争協力の側面を教えてくれる。

2009年10月13日 (火)

Taschenwörterbuch Deutsch-Aserbeidschanisch, Aserbeidschanisch-Deutsch

Tashenworterbuhdeutshaserbeidshanis Taschenwörterbuch Deutsch-Aserbeidschanisch, Aserbeidschanisch-Deutsch, Verlagsanstalt Otto Stollberg, Berlin, 1943. 『ドイツ語アゼルバイジャン語・アゼルバイジャン語ドイツ語ポケット辞典』(ベルリン,1943年)

第2次世界大戦中,ドイツ軍はソ連軍捕虜(中央アジア・コーカサス出身の将兵)を,ソ連軍と戦うドイツ軍を支援するコーカサス部隊,タタール部隊などに再編成している。ドイツ軍は少数民族の反ソ感情を利用して,民族部隊の再編成を行っている。同じ頃の日本軍は,捕虜を味方にするような民族工作は,英領植民地出身のインド兵部隊を除いて,成功していない

ソ連軍兵士からドイツ軍支援部隊が編成され,その中にコーカサス部隊があった。このポケット辞典は,アゼルバイジャン出身の兵士のため編集された。語彙数は3000語の簡単なものであった。アゼルバイジャン人の利用を考慮していたから,ドイツ語・アゼルバイジャン語編が先になったいた。ここでのアゼルバイジャン語は,1920,30年代に使われたラテン文字表記である。同じ出版社から《Aserbeidschnischer Sprachführer(アゼルバイジャン語ハンドブック)》も出版されていたようだ。

ソ連国内では,スターリンのロシア主義により,1939年に中央アジア・コーカサスのトルコ系諸語,モンゴル系諸語はラテン文字からキリル文字に切り替えられていた。このポケット辞典が出版された1940年代,ソ連ではトルコ系諸語のラテン文字表記は廃止されていた。この辞典を使用する若い兵士たちはラテン文字表記で教育を受けた者が多かったから,アゼルバイジャン語のラテン文字表記は当時としては適切なものであった。現在では,旧ソ連以外でアゼルバイジャン語が旧ラテン文字表記で出版された文献はほとんどないので,ポケット辞典ではあるが,歴史史料としても価値があるであろう。

第2次世界大戦中,日本軍も現地民との会話に必要な簡単な辞典や会話集を各地で作っていた。戦争は,兵士が外国人との会話に使う,最低限の語彙を含む簡単な辞典や会話集を必要に迫られて編纂させている。簡単な辞典や会話集が戦争中や占領期に多く出版されるのに洋の東西を問わないようだ。このような作業過程で,日本の言語学者や語学研究者の果たした役割について,研究されることはなかった。言語学や語学研究が時代の要請に応えて,アジアの言語研究をしたが,そのようなことの確認は,日本の学会ではしていないようだ。

2009年10月12日 (月)

トルコ・アルメニアの国交樹立

スイス・チューリッヒでダヴトオール・トルコ外相,ナルバンジャン・アルメニア外相が両国の国交樹立に関する署名をおこなった。この式典をクリントン国務長官,ラブロフ露外相,EU代表などが式典を見守った。式典を終了してトルコ外相は微笑をもらし,アルメニア外相は硬い表情であった

両外相の表情が今回の両国の外交関係樹立において,両国の力関係を示しているとも言えよう。トルコが経済発展を続け,中東地域の地域大国として,政治・経済面で強い発言力を確保しつつある。それに比べると,内陸国のアルメニアは経済的は発展に取り残されている。欧米にいるアルメニア人のディアスポラは,アルメニア支持を言っても,実際に資金面で本国アルメニアを支援することは少ない。ロシアもアルメニアをCISの一員として庇護する立場を取りながら,実際には支援することも大きくはない。

今回の国交樹立の署名が終わっても,議会で承認されるかどうかまだ分からない。今回の国交樹立に関して,欧米が後押ししたことは確かであるが,アルメニアというよりもトルコを自分たちの味方につけておきたいという思惑があった。それだけ,トルコの地政学的な重要性が高まっていることは間違いない。米・露・欧州は,アルメニア・トルコの歴史認識を利用しながらも,自分たちの利益に結びつけるため,外交を現実的に進めていることを,今回の国交樹立式典で見ることができた。

私たちがアジアの外交で応用すべきは,二国間外交ではなく,このような多国間外交を利用しつつ,日本の国益を守ることを身につけることではないだろうか。

2009年10月11日 (日)

A. von Gabain: Özbekishe Grammatik

Ozbekishegrammatik A. von Gabain: Özbekishe Grammatik, Leipzig, 1944, 278s.『ウズベク語文法』,ドイツ語。

著者の故アンネマリー・フォン・ガベン教授は,東トルキスタン出土のウイグル語文献など古代トルコ語文献学の碩学であった。日本の中央アジア・トルコ学では,ガベン教授は古代トルコ文献学の研究者としてのみ知られているが,そんな彼女は第2次世界大戦中に現代ウズベク語の文法書を出版している。

第2次世界大戦中,ドイツ軍は多くのソ連軍兵士を捕虜にしている。捕虜の中に中央アジア・コーカサスのトルコ系イスラム教徒の将校や兵士が含まれていた。ドイツはソ連の諸民族工作のため東方局を設置し,捕虜をドイツ軍に協力するよう工作活動を実施している。一部の捕虜は,ソ連軍と戦うタタール部隊に編入されている。ドイツに連れてこられた捕虜から軍事的な情報を収集するだけではなく,捕虜をインフォーマント(被調査者)として,中央アジア・コーカサスの言語研究が行われている。

そのような言語研究の一環として,ガベン教授の『ウズベク語文法』が出版されている。この文法書では,1920年代から1939年まで使用されたウズベク語のラテン文字表記が使われている。この文法書は,文献学者のガベン教授が著作した唯一の現代語の文法書であった。

ガベン教授の『古代トルコ語文法』などの著作は版を重ねるものが多いが,この『ウズベク語文法』だけは,戦後再版されることはなかった。ウズベク語のラテン文字表記をキリル表記に変えれば問題なく,戦後も通用したと思われるほど内容的に充実したものである。しかし,改訂再版されなかった。ガベン教授が戦時中の軍部への協力を知られたくなかったのか,それとも戦争責任を感じたのか,そのあたりの理由は不明である。学術的に内容が優れていたが,戦時中に出版され,戦後忘れ去られたウズベク語文法書である。

第2次世界大戦で,日本軍は中国大陸に東南アジアに占領地域を広げたが,陸軍は工作活動として現地民を使ったが,調査活動の成果として,いいか悪いかは別として,学術調査の成果がドイツほど綿密で緻密な調査は残されていない。貴重な調査報告の多くが,終戦により,多くが焼却されてしまったことにもよる。

2009年10月10日 (土)

独立国家共同体首脳会議

モルドバで独立国家共同体(CIS)の首脳会議が開催された。CISは11ヶ国が加盟している。ロシアはこの共同体の盟主の意識を強く持っている。今回の首脳会議では,トルクメニスタン,ウズベキスタン,タジキスタン,カザフスタンの中央アジア首脳が欠席した。ロシアは中央アジアを自分の勢力圏と思っているが,中央アジアはそう思われないよう抵抗している。

1991年のソ連崩壊による中央アジアの独立では,自分から望んだ独立でなく,棚ぼた的な独立であった。独立から20年近くが経過すると,中央アジアの首脳たちは,民族の団結のため民族主義を利用してきた。このため,中央アジアの人々に民族意識が芽生えている。ロシアとの関係を緒外国の一つの関係と見る若い世代が出ている。このような若い世代は,ロシアに対する関心も特にない。ロシア語を学ぼうという意欲もなく,外国語として英語を積極的に学んでいる。

ロシアの首脳やロシア人たちが中央アジアを自分たちの勢力圏と思っていても,中央アジアの人々にとって迷惑と感じている時代となっている。CIS首脳会議に中央アジアの首脳が欠席したことも時代の流れである。このような時代の潮流を読めないロシアの大国意識は時代遅れである。ロシア人たちから,このような時代遅れの意識を捨てさせることは極めて難しい。

2009年10月 8日 (木)

アゼルバイジャンの日本大使館とイスラエル大使館

今週月曜日,アゼルバイジャン・バクーの裁判所は,去年米国大使館とイスラエル大使館に対する攻撃未遂で逮捕されたレバノン人2名とアゼルバイジャン人4名に懲役12-15年の形を言い渡した。こういう記事を読むと,日本と何の関係もないと他人事として読んでしまう。しかし,この攻撃未遂事件が実行されていた場合,日本にも影響が及んだ可能性があった。こういうとみんな不思議に思うであろう。

在アゼルバイジャン日本大使館は,イスラエル大使館と同じビルに入っている。イスラエルは中東イスラム世界では,テロや攻撃の対象になっている。日本政府は,安全上のことを考慮しているのだろうか。費用がかかったとしても,危険なリスクを避けるためにもイスラエル大使館との同居はやめるべきだと思う。アゼルバイジャンという国に誰も注目していないので気づかないかもしれないが,事件が起きてからでは取り返しがつかないと思う。

2009年10月 1日 (木)

新疆ウイグル自治区の衝突事件に関して

上海在住の中国人ジャーナリストの友人が新疆を訪問し,現地の人々(漢族とウイグル族)の双方から話を聞いた。今回の事件では約1,000人が死亡している,とのことである。正確な数字は分からないとしても,多くの人の血が流れたことだけは事実のようだ。事件の原因については不明な部分がおおいが,ウイグル人か漢族の民族を問わず多くの人が事件で死亡した。新疆ウイグル自治区での民族紛争で流れた血は,残念ながら宇ウイグル人と漢族の共存共栄の生活を破壊し,憎悪と対立だけを残してしまった。

新疆ウイグル自治区に平和な日が戻るには長い時間がかかるのであろう。

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