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2010年2月

2010年2月26日 (金)

『古代文字の解読』

高津春繁,関根正雄『古代文字の解読』(岩波書店)を久しぶりに読んだ。故高津教授は印欧比較文法やギリシア語の大家,故関根教授はヘブライ語の大家である。第1章の「言語と文字」の最後に「…例えばトルコ系の言語の最古の資料となったオルコン碑文や西夏文字などは,本書の二人の著者の専門外である上に,文化的にも,また歴史的にもさして重要な役割をもたないものであるので,強いて本書の中に加えることはしなかったことを改めて断っておきたい」と書かれている。

本当に,突厥碑文や西夏文字が重要ではないと言い切れるのか,疑問に思ってしまった。文字の解読(エジプトのヒエログリフ,アッシリアの楔形文字,ヒッタイト文字など)は,西欧の研究者が行っていて,その研究成果はすばらしが,文字の解読以後,「文字学」という視点に立てば,東アジアの漢字は非常に重要であるが欠落している。文字の解読の歴史だけを語っているのであれば,この著作は名著である。しかし,文字学という視点に立つと,東アジアの未解読文字が含まれないのは,著者たちの西欧の学問成果の消化に基づいていたので仕方がないかもしれない。現在の視点にたつと,アジアの部分が加筆される必要があると思える。名著でありながら,再版されないのはそのあたりに理由があるのかもしれない。読み物としては依然として面白いことには変わりない。

文字の解読と文字学については,西田龍雄・京大名誉教授の著作のほうが示唆を与えてくれる。

2010年2月21日 (日)

オスマン帝国海軍軍艦エルトゥールル号と明治天皇贈呈品

2月20日,トルコ・日本合同調査隊が五年間エルトゥールル号遭難に関する海中調査活動を続けてきた最終日に明治天皇が贈呈した菊の御紋章入り陶片を発見したそうである。最終日に発見されたのは,日本とトルコの調査隊にとって有終の美を飾ることができたかもしれない。

和歌山県串本は,地元の人に失礼かもしれないが,東京や大阪から遠く,トルコの調査隊が5年間も調査活動を続けることができたのも,地元串本町民の草の根の日本・トルコ友好関係に負うことが大きかった。

2010年2月18日 (木)

東トルキスタン基金会長ルザ・ベキン将軍死去

2月16日午後8時,東トルキスタン基金会長のルザ・ベキン将軍がアンカラの病院で死去した。ご冥福を祈ります。

ルザ・ベキン将軍は,1924年に東トルキスタン(新疆)のホータンで誕生した。1934年,家族とマッカ巡礼の帰路,アフガニスタンのカブールで伯父のムハンマド・エミン・ブグラ(東トルキスタン共和国建国者の一人)と再会した。伯父ブグラとアフガニスタン駐在のエセンダール・トルコ大使の尽力により,ルザ少年を含む9名の東トルキスタンの青少年が教育を受けるためトルコに送り出された。ルザ・ベキン少年は,トルコではコンヤ陸軍幼年学校,クレリ陸軍予科士官学校,陸軍士官学校を卒業し,陸軍少尉に任官した。1950年には朝鮮戦争にも従軍している。その後,さまざまな軍歴を重ね昇進した。1973年に陸軍准将(ワンスター)となり,砲兵教育旅団司令官など勤め,1977年に退役した。

ルザ・ベキン将軍は,東トルキスタン出身でトルコで正規の陸軍教育を受けて将校に昇進し,将軍まで上り詰めた唯一の将軍であった。生前,何度かお会いすることがあったが,小柄でやさしい人柄で陸軍の将官であったというような,厳めしさはなかった。将軍との会話で将軍が最初に会った日本人は,1930年代にカブールに滞在していたときの日本人外交官の朝倉氏であったそうである。当時,伯父のブグラとカブール駐在の日本人大使館員とは頻繁な交渉があったそうである。朝鮮戦争でも日本で休暇を過ごしたこともあった。その後も,何回か日本を訪問する機会があったそうである。将軍との会話では,日本人や日本に対して,友好的かつ好意的であった。

ベキン将軍は故郷のホータンを訪れることはかなわなかったが,東トルキスタンへの思いは非常に強かった。将軍のご冥福をお祈りしたい。

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