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2010年4月

2010年4月28日 (水)

キルギス共和国の南北問題

キルギス共和国では,首都ビシュケクの大規模なデモにより,バキエフ大統領は南部に逃れ,その後カザフスタン,そしてベラルーシに亡命している。ローザ・オトゥンバエヴァ女史がとオムルベック・テケバエフ氏が臨時政府を樹立している。バキエフはキルギス南部出身で,彼はキルギスの南北対立を政治的に利用しようと考えているようだ。

首都ビシュケクの北部地域とオシュ市のある南部地域では,同じキルギスでありながら,歴史的・文化的・経済的に違いがある。北部はカザフスタンと長い国境を接し,かつては遊牧民の生活をおくっていた。南部はウズベキスタンのフェルガナ地域とも共通な生活圏を形成し,遊牧ではなく農業の定住生活を送ってきた。ウズベク人がいまでも少数民族として多く生活している。歴史的にはコーカンド・ハーン国の一部であった。

いままでのキルギスの大統領と首相は南北出身者のバランスを保っていた。たとえば,バキエフ前大統領(南部出身),クロフ前首相(北部出身)。しかし,そのバランスがあっても,政府が汚職で腐敗し問題を増大するばかりであった。

今回の政変では,ローザ・オトゥンバエヴァ女史(南部オシュ市生まれ,人生のほとんどを北で過ごした),オムルベック・テケバエフ氏(南部出身,政治的経験はビシュケクで積む)が臨時政府を樹立したが,10月の選挙では南北キルギスの住民たちがどのような投票行動をするか興味深い。その結果がキルギスの南北対立の構造をきわだだせるかもしれない。

2010年4月25日 (日)

A Jewish Girl in Shanghai 『猶太女孩在上海』

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Wu Lin, A Jewish Girl in Shanghai 呉林『猶太女孩在上海』華東師範大学、2008年4月、定価150元

上海ユダヤ難民記念館入口の入場券売場でユダヤ難民の書籍が数冊販売されていた。その中の1冊を購入した。カラーの漫画に英語のセリフの外国人向けの書籍。内容は上海に避難したユダヤ人少女の物語。いつもの中国の本のように、悪い日本軍人が登場し、日本軍国主義にユダヤ少女が反抗する。著者のサイン入りであった。

ユダヤ難民たちは、虹口の日本人が多く居留する地域に生活し、日本人とはうまく生活していた。日本人も欧州から渡来した彼らのカフェやレストランを本格的なヨーロッパの味で安価なので利用していた。ユダヤ人と日本人の庶民が共存していた。しかし、中国共産党の歴史観に基づくと、上海のユダヤ人と日本人の共存は無視されている。まあ、この本が中国で出版されているから仕方がない。しかし、これが正しい出来事として、この本を購入した外国人たちが思ってしまうのだろう。日本の漫画家には、《虹色のトロツキー》を描いた漫画家もいるので、戦前のユダヤ問題に関心あるから、もう少しまともな漫画を描いてもらいたいものだ。

前にも書いたが、上海ユダヤ難民記念館の展示は日本に対して悪意のないのは、記念館の説明を準備したのが、この問題につきよく研究した中国人研究者が参加したからであろう。

2010年4月23日 (金)

アンカラ大学言語歴史地理学部日本語日本文学科

アンカラ大学言語歴史地理学部日本語日本文学科は、この学科が創立してから20年経過した。その卒業生(1期生と3期生)が教員となって、現代日本語を教えている。イスタンブールはトルコ第1の都市で多くの大学があるが、日本語学科はなく、歴史学科で日本語が教えられているに過ぎない。首都アンカラでは毎年日本語を学ぶ学生や大学院院生がいる。日本に関心を持つトルコ人をサポートする体制は完全とは言えない。日本政府や外務省、国際交流基金は、親日派や知日派のトルコ人をサポートすることにもって力を入れるべきだと思う。

トルコはODAでハードを支援する国ではない。いまのトルコは中東・バルカン・中央アジアとの架け橋となっている国である。日本はソフト面でもっと支援し、トルコとの連携すべきだと思う。

アンカラ大学の若い教員たちは、日本が大好きである。私たちはもっと戦略的に日本の見方を増やすべきではないだろうか。東アジアの大国ばかり、意識するのではなく、トルコの親日派や知日派をもっと大切にすべきだと思う。日本はもっと見方を増やす努力をすべきだ。

2010年4月21日 (水)

キルギス騒擾とメスヘティア・トルコ人

キルギスではバキエフ大統領に対する大規模な抗議運動が起きた。この騒擾事件では、首都ビシュケク近郊のマユカ村のメスヘティア・トルコ人(トルコ語ではアフスカ・トルコ人)の村が襲われて、5名が死亡した。メスヘティア・トルコ人はスターリンによってグルジアから中央アジアに追放されたトルコ人たちである。キルギスではかつてキルギス人がメスヘティア・トルコ人を襲撃し、多くのメスヘティア・トルコ人がキルギスから去っていった。まだ、少数のメスヘティア・トルコ人が残っている。騒擾事件では、バキエフ大統領への抗議と関係ないメスヘティア・トルコ人が襲撃された。我々にはわからない民族間の憎悪があるようだ。

この死亡事件について、駐キルギス・トルコ大使が現地を視察した。トルコ政府はメスヘティア・トルコ人というトルコ系少数民族の動向を気にしているようである。

2010年4月19日 (月)

北キプロス・トルコ共和国

北キプロス・トルコ共和国で大統領選挙が行われ、再統合慎重派の候補が当選した。北キプロス・トルコ共和国を承認している国家は、トルコ共和国だけである。

朝日新聞の記事では、北キプロスについて、「…キプロスは1960年に英国から独立したが、多数派のギリシャ系住民と少数派のトルコ系住民が対立。74年、ギリシャとの併合を狙ったクーデターに対抗してトルコ軍が北部を占領。83年に北キプロスが独立を宣言し、分断状態となっている」と書かれていた。

この記事の書き方は、ギリシアや欧州諸国の見方と同じである。1974年のキプロス危機では、トルコは条約に基づいて、トルコ系住民の命を守るために出兵した。しかし、トルコ軍の行動が占領軍になってしまっている。日本は欧州の見方から距離を置いた見方をしてもいいと思うが、一度定まった見解を変わることは難しい。欧州諸国はトルコを異分子として、扱うことが多い。

北キプロスでのトルコの軍事行動が占領軍になってしまうように、戦前の日本軍の行動にも同じようなことがあったが、いまの歴史認識では全てネガティブな評価が下されてしまっていることと同じかもしれない。歴史認識は政治的な意図で形成されていることを、我々は認識していない。

2010年4月17日 (土)

カザフ人ハサン・オラルタイ氏の死去

カザフ人のハサン・オラルタイ(Hasan Oraltay)氏がドイツで死去した。同氏は1933年に東トルキスタン(新疆)タルバガタイに誕生した。彼の父親Alibek Hakimはカザフ人のリーダーであった。父親の率いるカザフ部族が漢人との闘争などで東トルキスタンからタクラマカン砂漠、チベット高原を経由してパキスタンに避難した。1950年代にカザフ人たちはパキスタンからトルコ移住した。

トルコに移住したハサン・オラルタイ氏は、その後ミュンヘンで対共産圏向け放送局Radio Libertyのカザフ語放送で長年勤務した。この放送局には、彼のような亡命者や避難民がアナウンサーとなり、タタール語、カザフ語、アゼルバイジャン語などの言語で短波放送を行っていた。

1991年にカザフスタンが独立すると、モスクを寄付するなどイスラムが広まることに貢献した。このような活動に対して、カザフスタンの大学から名誉博士や名誉教授の称号が授与された。このような彼へのカザフスタンでの顕彰とは対照的に、彼の出身地、現在の新疆ウイグル自治区からは意図的に無視され続けてきた。中国共産党は在外トルコ系の人に冷淡であり、民族分裂運動の活動家として黙殺してきた。

1950年代にトルコに移住した東トルキスタン出身のカザフ人たちの中で移住と避難を知るカザフ人がまた一人亡くなった。ご冥福を祈ります。

2010年4月14日 (水)

幻のドキュメンタリー映画《祖国を追われて》

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幻のドキュメンタリー映画《祖国を追われて》

映画人の川喜多長政が日中戦争中の上海で中華電影を経営していた。川喜多は若いころドイツに遊学した経験があって、ドイツ系ユダヤ人の生活について知っていた。川喜多は国際人として、民族の差別や国境の障壁はなかった。川喜多は祖国を追われたユダヤ人に深い同情があった。

川喜多は、ユダヤ人の女流映画監督ゲルトルート・ヴォルフソンから上海に避難したユダヤ人の生活を映画にして欲しいとの懇請を受けた。川喜多はヴォルフソン監督の企画に賛成し、映画製作への協力を約束した。テーマは祖国を追われたユダヤ人が日本海軍の管理地区で平和的、建設的な仕事にいそしむ現実の姿を描くことであった。

このドキュメンタリー映画《祖国を追われて》は、完成の暁には、ユダヤ人に対する「全世界の一層の理解と支持を得るために、米国はじめ諸外国にも輸出したい」と考えていた。しかし、製作開始の時期が悪かった。一九四〇年九月、日独伊三国同盟が締結された。この政治情勢は上海に影響を及ぼすこととなった。上海の海軍も反ナチズムの映画撮影を、管轄地域での撮影許可を撤回することとなった。川喜多の撮影は、ユダヤ人の自主撮影に、中華電影が技術協力するという形で制作していたが、「八分通り出来たところで日本軍から遂に強権をもって、この映画の制作の無条件中止を命じられるに至った」のであった。

その制作中のスナップ写真は、『東和映画の歩み』に掲載され、その背景は上海事変後に復興に立ち上がる上海のストリート・シーンを表現していた。このスナップ写真から分かるように、ユダヤ人スタッフが製作を助けている。映画《祖国を追われて》が政治情勢のため、八部通りのところで幻に終わってしまった。現地の海軍(上海海軍武官でユダヤ通の犬塚海軍大佐)とともに、親ドイツ派が主流を占めていた陸軍に一泡吹かそうとした川喜多の権威に屈しない強さがあった。映画《祖国を追われて》は、上海のユダヤ人生活を知ることができる、唯一貴重なドキュメンタリー映画である。この幻の映画が上海か日本のどこかに残っていないだろうか。

2010年4月12日 (月)

上海ユダヤ難民記念館

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戦前、ナチスがユダヤ人を迫害したとき、ユダヤ人たちは欧州から海外に逃れる場所がなかった。米国もユダヤ移民を制限し、アインシュタインのような科学者、資本家など米国に役立つユダヤ人の移民を受け入れたが、貧しいユダヤ人の移民を受け入れなかった。英国は英国委任統治領であったパレスチナにユダヤ人が移住することを制限していた。ユダヤ人たちが欧州から逃げたくても世界は門戸を閉ざしていた。

杉原千畝領事がリトアニアでユダヤ人6000名に「命のビザ」を発給したことは有名である。パスポートを持っていても入国査証がなければ、どこにも行けないのが戦前の世界であった。そのような世界において、入国査証がなくても入れる場所がアジアにあった。それは中国の上海の国際共同租界とフランス租界であった。欧米列強が中国に持った特殊権益の場所であった。租界は植民地とは異なり、形式的に中国から土地を合法的に借りるというものであった。中国であるながら、中国ではない場所であった。

上海の租界は、ユダヤ人たちが入国査証がなくても入れる場所であった。しかし、欧州から上海は遠かった。シベリア横断鉄道を利用して極東に向かうには、ソ連の通過査証が必要で、杉原ビザを持っていないユダヤ人には無理であった。イタリア商船で欧州から客船で逃げてきたユダヤ人たちがいた。ナチスはユダヤ人の財産を差し押さえていたから、乗船券を買えたユダヤ人は恵まれていた。ナチスは乗船するユダヤ人の財産を制限していたから、上海にやってきたユダヤ人たちは着の身着のままの家族が多かった。1937年以降、上海にやってきたユダヤ人は、1万3000人とも言われる。

貧しいユダヤ人たちが住み着いた場所は、戦前に日本租界と呼ばれた「虹口」地区であった。虹口は、「上海長崎県」とも揶揄されたように、海軍陸戦隊が守備隊として駐屯し、日本帝国総領事館が置かれ、多くの日本人が日本のように生活していた場所であった。上海事変後、中国人住民の多くが別の場所に逃げていたので、空き家が多かった。ユダヤ人たちと日本人が隣人となった。ユダヤ人たちは無国籍であった。

第2次世界大戦中、日本軍は無国籍ユダヤ人たちの住む場所に制限を加えた。このことを、「上海ゲットー」などと呼んでいるが、これは間違いである。欧州のユダヤ人ゲットーはユダヤ人だけを閉じ込めた場所である。虹口の欧州避難民制限地区には、日本人も中国人も生活していた。歴史は恐ろしいもので、「ゲットー」という言葉が独り歩きすると、上海にも欧州のようなユダヤ人ゲットーがあったように、錯覚させてしまう。日本はユダヤ人の行動の自由を完全に封じたように書かれているが、これも間違いである。何も知らないと、間違った情報が正しい歴史のように認識されてしまう。

中国人研究者、日本人研究者も、欧米人たちも「上海ゲットー」という言葉を平気で使っている。これは困りもである。日本軍国主義がナチスのようにユダヤ人を抑圧したという、欧米人の論理にのったものになってします。「日本=悪」という、ロジックには加担したくないものだ。

日独伊三国同盟を結んでいた日本は、親ドイツのように思われているが、必ずしもそうではない。ドイツから見ると、日本はユダヤ人に寛大であると思われていた。駐日ドイツ大使館付の「ワルシャワの殺人鬼」と呼ばれたヨーゼフ・マイシンガー親衛隊大佐が1942年7月に上海を訪問し、ユダヤ人虐殺の提案をした。彼の上海訪問でユダヤ人たちは恐怖を感じたという。

日本は五相会議でユダヤ人迫害に加担しないと決定していたので、親衛隊大佐の提案を拒絶している。ユダヤ人居住地区は、海軍管轄地区であった。これが親ドイツの将校たちばかりの陸軍管轄地区であったならば違った動きがあったかもしれない。ユダヤ人たちもこの点で海軍管轄地区の「虹口」にいたことは良かったことかもしれない。

ある中国の漫画は、親衛隊大佐と日本軍が共同でユダヤ人を殺害しようとしていたいうストーリを描いている。これは全く史料に基づいていない。しかし、英語で書かれた漫画であるので、これを読んだ外国人観光客は間違った理解をするに違いない。歴史に客観性を求めるのは日本人ぐらいかもしれない。歴史が政治であることに気づかないと、これからも日中間の歴史認識で日本は一方的に防戦にまわることなる。

第2次世界大戦後、多くのユダヤ人たちは上海から米国やイスラエルに移住した。ユダヤ人の一人、マイケル・ブルメンソールは米国に移住し、奨学金を得ながら刻苦勉励し、プリンストン大学博士となり、その後はカーター政権の財務長官まで上り詰めた。

かつて、多くの日本人やユダヤ人が生活した上海の虹口地区に「上海ユダヤ難民記念館」が開館している。ここを訪問する観光客はユダヤ人が多かった。入場料の50元は中国人にとって安い入館料ではないようだ。中国人見学者はいなかった。上海の中国人には、ユダヤ避難民に関する興味はない。この記念館では、杉原千畝の「命のビザ」のことも触れられている。ここを見学していて、日本に対する悪意がないのはよかった。

2010年4月 8日 (木)

満鉄東亜経済調査局『新亜細亜』のユダヤの動向

満鉄東亜経済調査局発行の雑誌『新亜細亜』には,「アジアの展望」というコラムがある。『新亜細亜』(昭和15年2号)の「アジアの展望」では,猶太(ユダヤ)の動向が掲載されている。その中で「トルコ猶太人に差別待遇」とトルコのユダヤ人の動向について簡単な消息を書いている。

「猶太系トルコ人は,直接戦闘の兵役から除外されると云う最近の政府決議を已むを得ず承認せしめられた。これで数年前の形勢に還ったわけである。将来に在ても猶太人は武装訓練される事なく単に,伝令又は従卒としてトルコ将校の命に従う事となるのである。彼等は若し特別軍事課税を納付すれば,18ヶ月の代りに僅か6ヶ月の軍隊生活を勤めればよいと云う選択を与えられることになっている

 ブルサに在っては,猶太人は公会,市街に於いては一切トルコ語を使用すべき強制的命令を受けている。そして此の命令を無視する者は市街から退去せしめられるのである。今回の制度も所謂「トルコ人のトルコ」政策の一部を為すものであり,別に排ユダヤ的意味の有るものではないと称へられている…」

昭和15(1940)年の雑誌にユダヤ人の動向,それもトルコのユダヤ人の動向が掲載されていることは興味深い。このようなことまで調べているので,満鉄東亜経済調査局の研究調査の能力が高かった。現代トルコについて継続的に詳細に調査している,公的な機関はない。

外務省も経済産業省も中東やトルコに関して,委託調査させるだけで,現地データを蓄積し,それに基づく調査研究は行われていない。アジア経済研究所が現地の調査研究を担っていたが,行政改革の美名のもとに研究調査の部門が縮小されている。残念なことである。満鉄調査局のように,潤沢な資金と人員がないと,やはり総合的な調査研究は無理であろう。このような調査研究やデータの蓄積があって,戦略を立案できる。残念ながら,必要なところに税金が投入されず,ばらまきでは日本の知的水準はますます低下していくのであろう。

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