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2010年5月

2010年5月27日 (木)

「百年にわたるトルコと日本友好親善」写真パネル展

Shashinnippon

日本財団ビル1階で「トルコに保存されている日本の古写真コレクション」(ユルドゥズ宮殿のアルバム写真から)のパネル展示が5月27日から6月2日まで開催されている。入場無料。エルトゥールル号に関する写真も展示されている。

2010年5月26日 (水)

トルコ人のロシア入国査証免除

トルコ・ロシア首脳会談の結果、トルコ人とロシア人はビザなしに往来できるようになる。何時、実施されるかはまだ分からない。しかし、露土戦争以来、オスマン帝国そしてトルコは、歴史的にロシア帝国、ソ連に対して反露や反ソ感情を持っていた。日本では、日露戦争に日本が勝利したのを、オスマン帝国のスルタンやトルコ人が狂喜し、息子に「トーゴー」の名前をつけたという逸話が日本・トルコ友好の話としてよく語られている。日本人はこういう逸話が好きであるが、トルコ人はもうすっかり忘れている。

いまのトルコでは、反米感情はあっても、ロシア人に対する反露感情や嫌露感情はほとんどない。トルコのビジネスマン、とくに建設業などはロシアに進出してホテルなど多くのビルを建設している。トルコ人労働者もロシアで働いている。他方、ロシアの金持ちは地中海のリゾートで遊び、トルコに金を落としている。トルコとロシアは距離的にも近く、人々の交流も盛んになっている。ビザがいらなくなれば、トルコとロシアの交流はもっと盛んになるであろう。人の交流は相互理解に役立っている。

最近、日本では中国人観光客を目当てにビザ発給を緩和することになった。これは日本で景気が悪いので、中国人観光客の懐をあてにしているからであろう。日本のビジネスも中国に積極的に進出している。日本では中国と交流と比べると、ロシアとの関係は領土問題などがありひけている。ロシアも日本もビザ発給を難しいままに置いている。好き嫌いではなく、人の交流がなければ、日露関係は永遠に好転しない。

日本は、ロシアと良好な関係を着実に構築しつつあるトルコと組んで、モスクワを含むロシアとのビジネスを発展する選択肢もあると思う。日本の企業には優秀な人が多くいると思うが、残念ながら戦略的な思考や挑戦する意欲が萎えているようだ。それに比べると、韓国は韓国独自でロシアに進出するのみならず、トルコと組んでロシアとビジネスをしている。日本ももっとマルチ(多国間)で関係を構築することを考えてもいいと思う。いまのトルコは日本が組んで仕事をするのに実力あるパートナーとなることができる。

2010年5月22日 (土)

駐日中国大使館の中国旅券更新と中国少数民族

中華人民共和国の大使館や総領事館が日本各地にある。大使館は六本木ヒルズの近くにある。中国パスポートを所持する人が大使館領事部にパスポート更新を申し込むと、漢族の中国人は2週間で発給される。しかし、中国少数民族のチベット人、カザフ人、ウイグル人が更新申請すると、現地のチベット自治区、新疆ウイグル自治区で書類が回され、審査され発給まで3ヶ月かかる。多分、少数民族は公安を通じて身辺調査が行われるのであろう。中国パスポートを所持している少数民族の審査は厳しい。これでは、中国少数民族が共産党を嫌いになるのも当然であろう。少数民族は中華民族として平等に扱われると言われても信じる人は誰もいない。共産党は漢族以外の民族に対して傲慢であり、常に上から目線である。

2010年5月21日 (金)

トルコ首相のギリシア訪問と中国人

5月14日,トルコのエルドアン首相が閣僚10名,政府関係者,ビジネスマン100名,ジャーナリスト60名など320名を引き連れて6年ぶりにギリシアを訪問した。ギリシアのパパンドレウ首相と会談した。会談はトルコ・ギリシア関係改善の促進であるが,経済危機に直面しているギリシアと比べるとトルコには余裕が感じられる。これからのトルコ・ギリシア関係では,キプロス問題を除いて,トルコ側が有利な状況になりつつある。

トルコ・ギリシア首脳会談で面白い議題があった。「中国人観光客の共同誘致促進」が議題となったようだ。トルコ,ギリシアにおいてアジアからの観光客は日本人が多いが,トルコもギリシアも金満中国人観光客を誘致したいとのことだ。日本ではトルコは親日国だとうぬぼれている間に,現実的なトルコ人たちは日本ではなく,中国に目を向けつつある。これも世界の趨勢であるが,日本人の努力も足りないのも事実かもしれない。

2010年5月19日 (水)

クリミア・タタール人の強制移住追悼記念日

1944年5月18日、第2次世界大戦中のソ連は、対独協力の利敵行為の可能性ありとして、クリミア半島に生活していたクリミア・タタール人全員の18万人を中央アジアやシベリアに強制移住した。スターリンは1937年には極東の朝鮮民族を中央アジアに強制移住させたが、同じようにクリミア・タタール人全員をクリミア半島から追放した。移動は家畜同然に貨物列車に乗せら移動させられた。移動中や移住先で食糧も十分に与えられず、劣悪な環境から多くのタタール人が死亡した。タタール人がクリミア半島にいなくなると、ロシア人やウクライナ人が移住し、タタール人の墓や歴史的な建築物などが破壊され、タタール文化が抹消された。

現在クリミア半島の人口は210万であるが、タタール人の人口はその12%で約25万ある。この66年間でクリミア人は18万から25万に回復した。

タタール人たちはスターリン死後の1950年からに中央アジアからクリミアに戻るが、この帰還はソ連時代違法なものであった。しかし、戻ってもかつての住宅や土地にはロシア人やウクライナ人が占拠していて、まともな生活ができなかった。

1991年のソ連崩壊により、クリミア半島はウクライナの一部として独立した。1991年にクリミア・タタール人たちはクリミア帰還の正式な許可をウクライナから得るのであった。なんと、遅いことであろうか。ソ連が崩壊し、その継承国家であるロシアは何の謝罪もない。

先週、親露派と言われるウクライナ大統領ヤヌコヴィチは、適正な規模で強制移住66周年記念開催を認めると発言した。昨日、5月18日、クリミア半島各地でクリミア・タタール人たちは強制移住追悼66周年記念の式典を開催した。この式典は1993年以降毎年実施されている。

スターリンの恐怖政治は自国の少数民族の安寧など全く考慮しない、エゴイズムの政治であった。その犠牲者はユーラシア各地に多くいて、傷跡はいまでも癒えることがない。

2010年5月17日 (月)

ウズベキスタンでの噂

ウズベキスタンには,Zeromaxという企業集団(ホールディイング)がある。この企業集団の実質オーナーは,ギュルナラ・カリモフ(カリモフ大統領の長女,スペイン駐在ウズベク大使)である。本部をスイスにおいているため,ウズベキスタン最大の外国資本で最大の従業員を抱えている外資となっているが,実質はウズベクの企業である。どうもこの企業集団に何かが起きているようである。Zeromaxの銀行口座が凍結されたとの噂もある。ウズベキスタン大統領の長女が所有する企業集団に何か起きているとすれば,権力闘争しかない。いずれ近いうちにウズベキスタンで何が起きているか判明するであろう。

2010年5月16日 (日)

TATARISCH

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Margarete I. Ersen-Rasch, TATARISCH, Lehrbuch für Anfänger und Fortgeschrittene, Harrassowitz Verlag, 2009.

日本でトルコ語以外のトルコ系言語(ウズベク語、ウイグル語、カザフ語など)を学習しようとすると、文法書、辞書などが揃っていなく難しい状況にある。カザフ語は日本語で、いい文法書も辞書もなく、会話帳だけである。中央アジアの人々と交流するのに現地の言語を学ぶことは大切だと思う。ソ連時代、中央アジアの人々はロシア語が共通語であったが、いまではロシア語が話せないウズベク人の若者が多くいる。英語で会話すればコミュニケーションに問題のない若者たちがおおくいる。それ以外の世代とはロシア語か現地語になる。ロシア語は重要だと思うが、現地の言語を知ることは相互理解を深めることで大切なことと思う。

ところで、ロシア連邦にも多くのトルコ系少数民族がいる。その中でタタール人が有力だと思う。ロシアのトルコ系民族となると、日本語で書かれた文法書も辞書もない。日本では知られてはいないが、タタール語による出版活動は盛んである。しかし、タタール語の書籍ははほとんど輸入されていないので知られることはない。

ドイツは歴史的にロシアへの関心が強く、とくに言語研究が盛んである。去年、ドイツ語で初級・中級用のタタール語文法がCDつきで出版された。ドイツ語が読める人は少ないと思うが、参考までにあげておく。Nicholas Poppe, Tatar Manualと比べると分かりやすい。ポッペはアルタイ諸語研究では碩学であり、タタール語の記述文法として優れているが、分かりやすい文法ではなかった。それに比べると、この文法書分かりやすい。

2010年5月13日 (木)

アタチュルク像の報道(トルコ紙)

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5月7日付けトルコ紙 Sözcü  の13面に「日本におけるアタチュルク像」という見出しで記事が掲載された。「・・・日本からよいニュースがきた。1998年に新潟の商業施設であるトルコ文化村に建立されたが、2005年の地震で破損して倉庫に置かれていた、高さ7.5メートルの立派なアタチュルク像が6月3日の和歌山県串本町の序幕式典により安置される。・・・日本に対して友好の印としても感謝する・・・」

和歌山県串本町に設置される予定のアタチュルク像に関して、トルコから好意的な報道がされている。柏崎市でのアタチュルク像の取り扱いについて、いろいろと話題になったが、串本町で設置されることで、いい方向に向かいつつあるようだ。

2010年5月11日 (火)

船の科学館に仮設されたアタチュルク像(続き)

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お台場の,船の科学館の庭に柏崎のトルコ文化村にあったアタチュルク像が仮設されている。日本財団が柏崎からの運搬と像の修復の費用をだした。仮設されているが,まもなく6月3日の和歌山県串本町に設置されるため東京から大型トラックに積載されて運ばれる。

これで日本国内での所有問題も解決され,新潟中越地震で破損して痛々しかったアタチュルクの姿も騎乗の勇姿となっていた。トルコ人が抱くアタチュルクのイメージとなっていた。 串本町に設置されれば,日本・トルコ友好のシンボルとなるであろう。

2010年5月 4日 (火)

石油掘りの唄(アゼルバイジャン・ワーク・ソング)

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CD《蟹工船 日本の労働歌集》(キングレコード、2,000円)

「年越し派遣村」村長として、格差と貧困を告発していた湯浅誠氏が前書きを書いている。このCDの中に「石油掘りの唄(アゼルバイジャン・ワーク・ソング)」が 入っている。ダークダックスが歌っている。この歌はダークダックスが1960年代初めにソ連を訪問したときに、ソ連から持ち帰った歌のひとつであった。歌詞は次のとおり。

ガッタンゴットン、ガッタンゴットン

休みなく働くよ働くよ、石油井戸

おいらは朝から 見回りだ

暑いお日さまなんかは、平ちゃらだ

お日さまなんか、負けるよじゃ

かわいいあの娘に、きらわれる

おいらのオジイも、おいらのオヤジも

みんな石油掘り、バクーの生まれよ

おいらの体にゃ。石油が流れる

おいらの生まれは、アゼルバイジャン。

1960年代に日本で歌われたが、ソ連のバクー油田の地理的な位置を理解した日本人は当時ほとんどいなかったと思う。この歌詞から分かるように、ロシア民謡とは異なる陽気な歌である。

1991年のソ連崩壊によりアゼルバイジャンが独立し、バクー油田開発に国際石油資本(石油メジャー)が関与している。日本の国際石油開発帝石(INPEX)も石油開発に参加し、日本もカスピ海石油開発に参加している。バクー油田に脚光が浴びているが、「石油掘りの唄(アゼルバイジャン・ワーク・ソング)」が日本の労働歌集でCDに再録されたのには、バクー油田開発と全く関係はない。

日本の労働歌として、「石油掘りの唄(アゼルバイジャン・ワーク・ソング)」を聴くことができるようになった。

2010年5月 3日 (月)

ボスポラス海峡に3番目の橋

ボスポラス海峡を跨ぐ3番目の橋が建設されることになる。1番目は英国企業連合、2番目はIHI(石川島播磨)などの企業連合が建設した。2番目のファーティフ橋は、日本の企業が建設し、完成予定日よりも早く完成したことで日本の企業に対するトルコ人の信用度がアップした。

2つの橋は交通量が多く、慢性的な渋滞となっていて、この慢性的な渋滞を解消するために、3番目の橋の建設がトルコの各界から求められていた。

それとは別に、ボスポラス海峡の海底を東西に貫通する鉄道トンネルが建設されている。この建設に日本の国際協力銀行がトルコ政府に資金を融資している。日本のT建設を中心した企業体が海底トンネル建設の工事を実施している。建設中に遺跡や歴史的な遺構が発見され、進捗が予定よりも遅れている。

2010年は、「トルコにおける日本年」となっている。今年に設定されたのは、ボスポラス海峡の海底トンネル完成と合わせるためであったと、トルコ人が言っていた。しかし、トンネル工事が遅れ、2010年には間に合わなかった。

第2ボスポラス海峡の完成は予定よりも早く完成し、トルコ人の信頼を獲得した日本であったが、今回はどうもその時のような意気込みが日本企業には失われているようだ。

2010年5月 2日 (日)

キルギス騒擾事件と失業者の不満

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この写真は、キルギスに滞在する知人がビシュケクで撮影した写真で、知人の許可を得て掲載します。掲載許可を与えてくれた知人Fさんに感謝します。

この写真は、ビシュケクの中国系スーパーがキルギス人の放火によって炎上した様子です。キルギスでは、職のないキルギス人たちの中で不満が鬱積している。外国人資本(中華系やトルコ系)をターゲットにした焼き討ち事件が起きた。キルギス大統領交代劇は、民主化を求める運動というよりも、失業や格差の不満が爆発した事件であったようだ。

豊かに見える外国人に対して、キルギス人たちが不満を爆発させた。2005年にも起きているが、今回も同じことが起きた。失業者に仕事が与えられないと、鬱積した不満はこのような焼き討ちや略奪を発生させる。

ビシュケクでの不満の鬱積が暴動となるのに比べると、失業率5%となった日本は何ともおとなしい国である。

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