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文化・芸術

2010年5月 4日 (火)

石油掘りの唄(アゼルバイジャン・ワーク・ソング)

Kanikosen

CD《蟹工船 日本の労働歌集》(キングレコード、2,000円)

「年越し派遣村」村長として、格差と貧困を告発していた湯浅誠氏が前書きを書いている。このCDの中に「石油掘りの唄(アゼルバイジャン・ワーク・ソング)」が 入っている。ダークダックスが歌っている。この歌はダークダックスが1960年代初めにソ連を訪問したときに、ソ連から持ち帰った歌のひとつであった。歌詞は次のとおり。

ガッタンゴットン、ガッタンゴットン

休みなく働くよ働くよ、石油井戸

おいらは朝から 見回りだ

暑いお日さまなんかは、平ちゃらだ

お日さまなんか、負けるよじゃ

かわいいあの娘に、きらわれる

おいらのオジイも、おいらのオヤジも

みんな石油掘り、バクーの生まれよ

おいらの体にゃ。石油が流れる

おいらの生まれは、アゼルバイジャン。

1960年代に日本で歌われたが、ソ連のバクー油田の地理的な位置を理解した日本人は当時ほとんどいなかったと思う。この歌詞から分かるように、ロシア民謡とは異なる陽気な歌である。

1991年のソ連崩壊によりアゼルバイジャンが独立し、バクー油田開発に国際石油資本(石油メジャー)が関与している。日本の国際石油開発帝石(INPEX)も石油開発に参加し、日本もカスピ海石油開発に参加している。バクー油田に脚光が浴びているが、「石油掘りの唄(アゼルバイジャン・ワーク・ソング)」が日本の労働歌集でCDに再録されたのには、バクー油田開発と全く関係はない。

日本の労働歌として、「石油掘りの唄(アゼルバイジャン・ワーク・ソング)」を聴くことができるようになった。

2010年4月23日 (金)

アンカラ大学言語歴史地理学部日本語日本文学科

アンカラ大学言語歴史地理学部日本語日本文学科は、この学科が創立してから20年経過した。その卒業生(1期生と3期生)が教員となって、現代日本語を教えている。イスタンブールはトルコ第1の都市で多くの大学があるが、日本語学科はなく、歴史学科で日本語が教えられているに過ぎない。首都アンカラでは毎年日本語を学ぶ学生や大学院院生がいる。日本に関心を持つトルコ人をサポートする体制は完全とは言えない。日本政府や外務省、国際交流基金は、親日派や知日派のトルコ人をサポートすることにもって力を入れるべきだと思う。

トルコはODAでハードを支援する国ではない。いまのトルコは中東・バルカン・中央アジアとの架け橋となっている国である。日本はソフト面でもっと支援し、トルコとの連携すべきだと思う。

アンカラ大学の若い教員たちは、日本が大好きである。私たちはもっと戦略的に日本の見方を増やすべきではないだろうか。東アジアの大国ばかり、意識するのではなく、トルコの親日派や知日派をもっと大切にすべきだと思う。日本はもっと見方を増やす努力をすべきだ。

2010年3月 5日 (金)

シルクロード デジタル アーカイヴズ(東西美術交流研究センター)

杉村棟博士(国立民族学博物館・総合研究大学院大学名誉教授)が東西美術交流センターを立ち上げた。杉村博士はイスラム美術史の専門家で長年中央アジアや中東において研究を続けてきた。杉村博士が撮影した中央アジアなどの写真がデジタル化され,デジタルアーカイブとして公開されることとなった。アーカイブルの個人利用には会員制ととっているから会員となる必要がある。ただし,学生と満62歳以上は年会費無料となっている。

杉村博士は50年前から現地を調査し,膨大な写真や映像を撮影してきた。このデジタル・アーカイブズに残されている記録は現在では見られなくなったものもあり,大変貴重である。写真や資料はデジタル化と整理分類が行われている。今後はデジタル化されたものがインターネットを通じて公開されることを望む。シルクロードに関心あるひとは日本のみならず,世界にも多くいる。

2009年9月 5日 (土)

トムセンと突厥文字

Vilhelmthomsen 18世紀初に突厥文字で刻まれた古代トルコ語碑文が発見されて以来,19世紀末までモンゴルやシベリアで突厥碑文が多く発見された。8世紀に突厥民族が活躍していた頃に作られた。突厥の歴史については,護雅夫著『古代遊牧帝国』(中公新書)がコンパクトにまとめられている。

突厥碑文を解読したのは,デンマークの言語学者ヴィルヘルム・トムセン(Vilhelm Thomsen, 1842-1927)であった。トムセンは,印欧比較言語学者として,ギリシア語,ラテン語,梵語など多くの言語に通暁していた。彼が言語学者として歴史に名を残すことになったのは突厥文字の解読であった。

未解読文字の解読に関しては,古代エジプトの象形文字解読のシャンポリオンが有名である。シャンポリオンが象形文字を解読する糸口を見いだしたのは,現在大英博物館に展示されている《ロゼッタストーン》に刻まれた王の名前であった。《ロゼッタストーン》は聖刻文字・ギリシア語・民衆文字の対訳のテキストがあったから可能であった。

トムセンが突厥文字の解読が可能だったのは,《ロゼッタストーン》と同じように,対訳の碑文が発見されたからであった。1890年,突厥碑文と漢文の対訳碑文が発見され,その後トルコ学者ラドロフが突厥碑文・漢文・ウイグル文の3種の文字による碑文が発見され,文字解読の材料がととのった。これらに碑文に刻まれた固有名詞《キョルテギン》や《ビルゲ・カガン》などの固有名詞,突厥碑文の文字が右から左へ読むことがヒントとなった。1893年,トムセンが突厥文字を解読した。

トムセンの名前は知られているが,彼の顔を見ることは少なく,参考まで写真を掲載した。言語学者泉井久之助は,戦前トムセンの言語学の本をデンマーク語から翻訳している。この本は古本屋でいまでもみかける。トムセンの論文《東トルキスタン》も翻訳しているが,雑誌に掲載されたため,こちらは全く忘れられている。

2009年7月30日 (木)

シルクロード 文字を辿って

Silkroad02 京都国立博物館特別展覧会《シルクロード 文字を辿って ロシア探検隊収集の文物》2009年7月14日-9月6日

いま,京都博物館での特別展覧会が開催されている。戦前は京都帝室博物館と呼ばれた,重厚な煉瓦造りの建物の中で<ロシア探検隊収集の文物>が展示されている。

全世界に5万点もあると言われる敦煌を中心とした西域出土の文献は,イギリス,ロシア,フランス,中国に所蔵されているものが世界4大コレクションと言われている。

この展示会では,ロシア・サンクトペテルブルクにあるロシア科学アカデミー東洋写本研究所に所蔵されているロシア探検隊が敦煌や中央アジアで収集した貴重な文献が展示されている。

今回の展示では,コータン・クチャ・カラシャフル,トルファン・敦煌・カラホトで発見された,古代ウイグル語,西夏語,トハラ語,漢文など,さまざまな文字の文献が約150件が展示されている。これら優品な文献は世界的に貴重な文献である。これらの文献がロシア国外で公開されるのは,本当にまれである。ほとんどが日本初公開。

中央アジアの文化が歴史的に豊かであったことを目にすることができる展示である。この特別展覧会での展示物を詳しく知ることができる図録が博物館内において2000円で販売されている。

2009年5月19日 (火)

アゼルバイジャンの近代文学史 民族文化の覚醒

「MollaNasreddin-01.pdf」をダウンロード

トルコマンチャーイ条約 (Turkmanchay, 1828)により帝政ロシアとイランの間でアラス(Araz)河が国境と定められた。これ以後アゼルバイジャンは帝政ロシアとイランに南北二分化されていくが、これは文化面にも大きな影響を与えることになる。北アゼルバイジャンが帝政ロシア支配下に入ると、トビリシ(Tbilisi)にコーカサス総督府が置かれ、ロシア語に通じた現地人の行政官や通訳官を登用するようになった。彼らが知識層を形成するようになって、彼らを通じてロシア文化やロシア文学がアゼルバイジャンに影響を及ぼすようになった。

アーフンドザーデ (Mirza Fathali Ahundzade, 1812-1878)は、通訳官としてロシア語に堪能で西欧文学(とくにフランス文学)やロシア文学に造詣が深かった。彼はモリエールを見習った喜劇や戯曲作品を著して近代演劇の創始し、アゼルバイジャン語のラテン文字表記を提案するなど文化や文学の近代化に大きな役割を果たした。アーフンドザーデが導入した演劇は、ヴァジロフ (Najaf Bey Vazirov, 1854-1926)、ハグヴェルディエフ (Abdurrahman Haqverdiev, 1870-1933)がさらに発展させた。ザルダビ (Hasan Bey Zardabi, 1832-1907)1875年に新聞「エキンジ (Ekinci, 農民)」を創刊した。この頃の文学の特徴はヨーロッパ的な啓蒙主義・合理主義・教養を志向し、文学の使用言語としてペルシア語からアゼルバイジャン語へ移行しつつあった。近代文学は、社会統合を阻害させていた、シーア派とスンナ派の対立を弱めるため世俗主義的な傾向もあった。

サービル (Mirza Sabir, 1862-1911)は「諷刺詩人」として知られている。彼の詩集『ホプホプナーメ(Hophopname)』は今でも版を重ねて人々に愛読されている。19世紀末から20世紀初めにサッハト(Sahhat)、ガニザーデ(Qanizade)などの作家たちとの交流を通じて創作に磨きをかけた。ロシア革命(1905-1907)も彼の諷刺や清新な詩作に影響を及ぼした。帝政ロシア支配下、彼の諷刺詩は検閲をくぐり抜けて掲載され、民衆に新鮮な刺激を与えて共感を呼び起こした。サービルが諷刺詩をアゼルバイジャン文学の一つのジャンルに引き上げた功績は大きい。

 

 ロシア革命(1905-1907)、イラン立憲革命(1906-1911)、青年トルコ人革命 (1908)という3つの革命が文芸思潮や社会情勢に大きな影響を及ぼしている。ロシア革命(1905-1907)期のアゼルバイジャンでは、「イルシャド(Irshad)」、「ハヤト(Hayat)」など現地語による新聞発行が許可された。新聞にはロシア以外のオスマン帝国情勢など国際情勢が掲載され、ニュースを通じてロシア帝国内外の社会情勢が伝わるようになった。検閲が少し緩んだこともあって、ジャーナリズムが都市住民を中心に影響を与えた。グルザーデ (Camal Memmed Quruzade, 1866-1932)は、有名な諷刺雑誌『モッラー・ナスレッディン (Molla Nasreddin)』を創刊し、諷刺文学と風刺画を通じて社会に影響を及ぼした。1905年以後の文学では、アゼルバイジャン語の言語純化が大きなテーマであり、これにはオスマン・トルコ語が影響を与えた。トルコ系諸民族の連帯というパントルコ主義も文芸思潮のテーマの一つであった。ヒュセインザーデ (Ali Bey Huseinzade, 1864-1940)はパントルコ主義の代弁者とも言え、文芸誌『フユザト (Fuyuzat,豊かさ)』を創刊してパントルコ主義の文芸思潮を知識人に鼓吹した。

 1917年のロシア革命によりコーカサスでも独立運動が起き、1918年にアゼルバイジャン民主共和国が独立した。その前の1905年からアゼルバイジャンの知識人の創作活動は高まっていた。独立により検閲のない自由な文学活動が盛んになると思われたが、独立は23ヶ月しか続かなかった。1920年にソビエト政権が樹立されと、文学活動にも制限が次第に加えられるようになった。ラスルザーデ (M. E. Rasulzade) のようにトルコへ亡命した者による文学活動が国外で行われていたが、本国では亡命作家の著書輸入禁止もあって一般の人が読むことを禁止されていた。亡命者文学は、1986年以降のグラスノスチ(情報公開)まで長い間アゼルバイジャンでは読むことのできない幻の文学であった。

 1920年以後のソビエト政権下では、ラテン文字導入や義務教育の普及により、識字率が向上して文学書の読書層が拡大している。1930年代のスターリンの粛正により、ジャーヴィド (H. Javid)、ムサイェフ(Q. Musayev)、シャフバジ (T. Shahbaji)などアゼルバイジャン作家同盟の著名な作家たちが犠牲となった。粛正された作家の多くはアゼルバイジャンの知識人であり、これら作家の喪失はアゼルバイジャン文学にとって大きな損失であり文学活動を停滞させることとなった。それ以後、社会主義リアリズム文学は、社会規範の強制や政治への絶対的な服従により、作家たちの芸術的な才能を萎縮させてしまい、アゼルバイジャン文学を教条主義的な文学にしてしまった。ヴルグン (S. Vurgun)、ジャバルリ (J. Shabarli)、エッフェンディエフ (I. Effendiyev)などは制約された環境下にありながらも民族文学作家として活躍した作家たちもいたが、アゼルバイジャン作家同盟所属の多くの作家たちは共産党に奉仕させられる教条的・迎合的な文学作品を書いた。ソ連時代の新聞や文学作品は検閲を通らなければならず、当局の意に反するような作品は出版されることはなかった。

 1986年代以降のゴルバチョフが推進したペレストロイカを支えたグラスノスチ(情報公開)により、発禁され封印されていた作家の作品が公開された出版されるようになった。グラスノスチとソ連国外との交流増加も刺激となって、新聞・文芸誌が多数発刊され、文学活動も盛んになった。

1991年のソ連崩壊によりアゼルバイジャンは独立を回復したが、その後の経済的な低迷や社会的混乱もあって文学作品の出版は低迷したが、2000年代になると石油収入の増加もあって社会が安定し始めると、サービル、ハジュバヨフなどアゼルバイジャンの名著が再版されている。政府が科学アカデミーや作家同盟での文学研究を支援し、作家たちが詩集や文学書を出版するなど、アゼルバイジャンにおいて文学活動がさかんになりつつある。<これは、以前にあるところで書いたものを多少修正した>