無料ブログはココログ

旅行・地域

2010年5月27日 (木)

「百年にわたるトルコと日本友好親善」写真パネル展

Shashinnippon

日本財団ビル1階で「トルコに保存されている日本の古写真コレクション」(ユルドゥズ宮殿のアルバム写真から)のパネル展示が5月27日から6月2日まで開催されている。入場無料。エルトゥールル号に関する写真も展示されている。

2010年5月 3日 (月)

ボスポラス海峡に3番目の橋

ボスポラス海峡を跨ぐ3番目の橋が建設されることになる。1番目は英国企業連合、2番目はIHI(石川島播磨)などの企業連合が建設した。2番目のファーティフ橋は、日本の企業が建設し、完成予定日よりも早く完成したことで日本の企業に対するトルコ人の信用度がアップした。

2つの橋は交通量が多く、慢性的な渋滞となっていて、この慢性的な渋滞を解消するために、3番目の橋の建設がトルコの各界から求められていた。

それとは別に、ボスポラス海峡の海底を東西に貫通する鉄道トンネルが建設されている。この建設に日本の国際協力銀行がトルコ政府に資金を融資している。日本のT建設を中心した企業体が海底トンネル建設の工事を実施している。建設中に遺跡や歴史的な遺構が発見され、進捗が予定よりも遅れている。

2010年は、「トルコにおける日本年」となっている。今年に設定されたのは、ボスポラス海峡の海底トンネル完成と合わせるためであったと、トルコ人が言っていた。しかし、トンネル工事が遅れ、2010年には間に合わなかった。

第2ボスポラス海峡の完成は予定よりも早く完成し、トルコ人の信頼を獲得した日本であったが、今回はどうもその時のような意気込みが日本企業には失われているようだ。

2010年4月12日 (月)

上海ユダヤ難民記念館

Shanghaijews01

戦前、ナチスがユダヤ人を迫害したとき、ユダヤ人たちは欧州から海外に逃れる場所がなかった。米国もユダヤ移民を制限し、アインシュタインのような科学者、資本家など米国に役立つユダヤ人の移民を受け入れたが、貧しいユダヤ人の移民を受け入れなかった。英国は英国委任統治領であったパレスチナにユダヤ人が移住することを制限していた。ユダヤ人たちが欧州から逃げたくても世界は門戸を閉ざしていた。

杉原千畝領事がリトアニアでユダヤ人6000名に「命のビザ」を発給したことは有名である。パスポートを持っていても入国査証がなければ、どこにも行けないのが戦前の世界であった。そのような世界において、入国査証がなくても入れる場所がアジアにあった。それは中国の上海の国際共同租界とフランス租界であった。欧米列強が中国に持った特殊権益の場所であった。租界は植民地とは異なり、形式的に中国から土地を合法的に借りるというものであった。中国であるながら、中国ではない場所であった。

上海の租界は、ユダヤ人たちが入国査証がなくても入れる場所であった。しかし、欧州から上海は遠かった。シベリア横断鉄道を利用して極東に向かうには、ソ連の通過査証が必要で、杉原ビザを持っていないユダヤ人には無理であった。イタリア商船で欧州から客船で逃げてきたユダヤ人たちがいた。ナチスはユダヤ人の財産を差し押さえていたから、乗船券を買えたユダヤ人は恵まれていた。ナチスは乗船するユダヤ人の財産を制限していたから、上海にやってきたユダヤ人たちは着の身着のままの家族が多かった。1937年以降、上海にやってきたユダヤ人は、1万3000人とも言われる。

貧しいユダヤ人たちが住み着いた場所は、戦前に日本租界と呼ばれた「虹口」地区であった。虹口は、「上海長崎県」とも揶揄されたように、海軍陸戦隊が守備隊として駐屯し、日本帝国総領事館が置かれ、多くの日本人が日本のように生活していた場所であった。上海事変後、中国人住民の多くが別の場所に逃げていたので、空き家が多かった。ユダヤ人たちと日本人が隣人となった。ユダヤ人たちは無国籍であった。

第2次世界大戦中、日本軍は無国籍ユダヤ人たちの住む場所に制限を加えた。このことを、「上海ゲットー」などと呼んでいるが、これは間違いである。欧州のユダヤ人ゲットーはユダヤ人だけを閉じ込めた場所である。虹口の欧州避難民制限地区には、日本人も中国人も生活していた。歴史は恐ろしいもので、「ゲットー」という言葉が独り歩きすると、上海にも欧州のようなユダヤ人ゲットーがあったように、錯覚させてしまう。日本はユダヤ人の行動の自由を完全に封じたように書かれているが、これも間違いである。何も知らないと、間違った情報が正しい歴史のように認識されてしまう。

中国人研究者、日本人研究者も、欧米人たちも「上海ゲットー」という言葉を平気で使っている。これは困りもである。日本軍国主義がナチスのようにユダヤ人を抑圧したという、欧米人の論理にのったものになってします。「日本=悪」という、ロジックには加担したくないものだ。

日独伊三国同盟を結んでいた日本は、親ドイツのように思われているが、必ずしもそうではない。ドイツから見ると、日本はユダヤ人に寛大であると思われていた。駐日ドイツ大使館付の「ワルシャワの殺人鬼」と呼ばれたヨーゼフ・マイシンガー親衛隊大佐が1942年7月に上海を訪問し、ユダヤ人虐殺の提案をした。彼の上海訪問でユダヤ人たちは恐怖を感じたという。

日本は五相会議でユダヤ人迫害に加担しないと決定していたので、親衛隊大佐の提案を拒絶している。ユダヤ人居住地区は、海軍管轄地区であった。これが親ドイツの将校たちばかりの陸軍管轄地区であったならば違った動きがあったかもしれない。ユダヤ人たちもこの点で海軍管轄地区の「虹口」にいたことは良かったことかもしれない。

ある中国の漫画は、親衛隊大佐と日本軍が共同でユダヤ人を殺害しようとしていたいうストーリを描いている。これは全く史料に基づいていない。しかし、英語で書かれた漫画であるので、これを読んだ外国人観光客は間違った理解をするに違いない。歴史に客観性を求めるのは日本人ぐらいかもしれない。歴史が政治であることに気づかないと、これからも日中間の歴史認識で日本は一方的に防戦にまわることなる。

第2次世界大戦後、多くのユダヤ人たちは上海から米国やイスラエルに移住した。ユダヤ人の一人、マイケル・ブルメンソールは米国に移住し、奨学金を得ながら刻苦勉励し、プリンストン大学博士となり、その後はカーター政権の財務長官まで上り詰めた。

かつて、多くの日本人やユダヤ人が生活した上海の虹口地区に「上海ユダヤ難民記念館」が開館している。ここを訪問する観光客はユダヤ人が多かった。入場料の50元は中国人にとって安い入館料ではないようだ。中国人見学者はいなかった。上海の中国人には、ユダヤ避難民に関する興味はない。この記念館では、杉原千畝の「命のビザ」のことも触れられている。ここを見学していて、日本に対する悪意がないのはよかった。

2009年11月26日 (木)

クルバン・バイラム(犠牲祭)

イスラム世界でクルバン・バイラム(犠牲祭)が27日から始まる。トルコでも犠牲祭に屠られる羊が集められている。羊が屠られ,解体される。羊の肉が貧しい人々に贈られる。犠牲祭はトルコ人の遊牧民のアイデンティティを継承させているもの一つであろう

昔,トルコの路上で犠牲祭で羊が屠られる様子を初めて見たとき衝撃を受けた。日常生活で動物を屠る様子を見ることがないのでショックだった。その後,何回か見たので,慣れというか,トルコの文化への理解が深まったのか,ショックを受けることはなくなった。イスタンブルやアンカラでは,市役所の指導により,羊を屠る場所を建物の中に設定するなどと犠牲祭の羊の屠り方も変わりつつある。

日本では,魚の活け作りやエビのおどりぐいを普通にしているが,これに衝撃を受ける外国人もいる。文化や生活の違いにショックを受けることはどこでもあり得る。文化や生活の違いを野蛮と決めつけることは慎まなければならないと思う。日本人がクジラを食べることを野蛮と決めつける欧米人は,他者の文化や習慣を理解しようとしない独善性を感じる。

2009年11月20日 (金)

テヘランのアゼリー人

久しぶりにテヘランを訪問している。テヘランの街中を走る車も綺麗な新車が増えている。渋滞も深刻になっている。

テヘランでアゼリー人が想像以上に多いことを実感している。アゼリー語で話しかけてみると,アゼリー語で答えてくれる人が多くいる。タブリーズなどイラン西北部のアゼリー人が多い地域の出身者もいるが,テヘラン育ちで家族内でアゼリー語で話す人も多いようだ。

テヘランでアゼリー語で話すと喜ぶイラン(アゼリー)人が多かった。日本人がアゼリー語で話しかけると,アゼリー人たちの表情が親しみさを示してくれた。

2009年11月 6日 (金)

中央アジアとドバイ

昨年の金融危機によりドバイの経済は急激に停滞したと日本で報道されていいる。ドバイに来てみて,そんなに影響を受けていないと感じた。多くの観光客でショッピングモールが賑わっている。多くのビジネスマンがドバイに商機を見つけに来ている。オイルマネーが世界経済を動かしている。

ドバイでも豪華で知られている,エミレーツ・タワーズ・ホテルには,中央アジアから来た若い人たちが働いている。数年前にはいなかったが,フロントではウズベキスタン人がてきぱきと働いている。日本レストラン Tokyo@thetwors ウェーターにはカザフ人の女性が働いていた。ロシアからのお客さんにロシア語で接客していた。

中央アジアの若者たちは,チャンスを求めて,ドバイなど中東にもきている。中央アジアと中東の湾岸諸国が接近していることを見ることができた。経済のグローバル化は,中央アジアの若い人たちにもチャンスを与えている。英語のできるウズベク人が一流ホテルのフロントで働いている姿を見ていると,有能な中央アジアの若者の流出が続いているとも言えるので,中央アジアには若者が活躍できる場が限られている。

2009年9月13日 (日)

NHK海外ネットワークとウイグル料理

今日のNHK海外ネットワークの番組は,イスタンブルのレストランの様子を紹介していた。イスタンブルならトルコ料理のレストランの紹介が普通であるが,今日はウイグル料理のレストランが放映されていた。イスタンブル旧市街のアクサライにあるウイグルレストランであった。トルコ人はウイグル料理のラグマン(肉うどん)を知らない。ハシでラグマンを食べている人(多分,ウイグル人)がトルコ語で「ラグマンはおいしい。《東トルキスタン》を思い出す」と語っていた。NHKはさすがに《東トルキスタン》という発言を通訳しなかった。

海外ネットワークは,世界情勢の知るのにいい番組であるが,イスタンブルになぜウイグル料理店があるのか,少し補足すればよかったと思う。しかし,そこまで番組制作者は気づかなかったのかもしれない。

2009年9月 6日 (日)

カザンのコル・シャリフ・モスク

Kazanmesjit

ロシア連邦タタールスタン共和国の首都カザンの中心に城塞がある。これはクレムリンと呼ばれている。ロシア語ではクレムリは「城塞」を意味する。中世ロシアにおいて,多くの都市は中心部にクレムリンを備えていた。

カザンの前近代の歴史は,11世紀初頭にヴォルガ・ブルガール人によって建設された。15世紀にはカザン・ハン国の首都として栄えたが,1552年カザンはイヴァン4世(イヴァン雷帝)に占領される。破壊されたカザン・ハン国の城砦のあとにはカザン・クレムリンが建設された。1708年にカザン・ハン国が廃止され、カザンはロシア帝国の地方都市、カザン県の県都となった。1774年,プガチョフの乱で破壊された

カザンはロシア帝国では地方都市,ソ連時代には民族共和国の首都,いまはロシア連邦のタタールスタン共和国の首都となっている。民族的には,トルコ系タタール人が人口の半数を占め,ロシア人も半数ぐらいを占めている。タタール人たちはイスラム教徒であるが,世俗主義が進んでいてイスラム色を感じすることはない。カザンは19,20世紀のロシア帝国でイスラム・モダニストと呼ばれる知識人を輩出してきた。日本では知られることはないが,カザンはロシアのイスラムの中心の一つであった。

カザン・クレムリンの城塞の中にモスクが建設されたことは,タタール人にとってイスラムのシンボルとなっている。タタール人たちの信じるイスラムは世俗主義が進んでいるので,ロシア人との共存がうまくいっている。イスラムが文明間の衝突でしか理解できない日本人にといって,イスラムとロシア正教が共存しているカザンを知ることには意義があると思う。しかし,カザンを訪問するにも,ロシア査証(ビザ)取得が簡単ではない。ロシアが日本人の前にユーラシア大陸のイスラムやトルコ系諸民族を理解する障壁となっている。

2009年6月20日 (土)

NHKアジア語楽紀行「旅するトルコ語」

NHK教育チャンネルにアジア語楽紀行という番組がある。アジア諸言語に中に「旅するトルコ語」とトルコ語もある。NHK教育チャンネルは長い間,語学というと英語・仏語・独語・露語・西語・中国語が定番となっている。最近では,アラビア語,イタリア語など言語の語種の幅も広がっている。

トルコへ旅行する人が増えて,トルコに関心をもつ人が増えている。トルコ語を学ぼうという人も増えている。テレビでトルコの風景や生活を見ながら,簡単なトルコ語が学べる。ただ,教師につかずに独学で勉強する人には,トルコ人の会話のテンポは少し早いかもしれない。ビデオに録画して繰り返して見ながら,トルコ語のテンポに慣れるしかない。

2009年5月26日 (火)

神戸モスク

Kobemosque
写真は出来て間もない頃の神戸モスク。

神戸は幕末開港以来,多くの外国人が居住し,貿易で繁栄してきた。貿易に従事した人々の中には,インド(当時は英領植民地下)からやってきたイスラム教徒たちもいた。篤信家のインド人たちが醵金してモスクを建設している。神戸モスクは,日本で一番歴史のあるモスクで1935 (昭和10)年に竣工している。

1938(昭和13)年に代々木上原に建設された東京モスクが在日イスラム教徒のみならず,政財界からの寄付金を募って建設された。そして,極めて政治的な色彩を帯びていたのとは対照的に,神戸モスクは在日イスラム教徒(主にインド系)に建設されたモスクであった。

このモスクはいまでも神戸在住のインド人,パキスタン人,インドネシア人などによって礼拝の場所として利用されている。その隣の建物では彼らの子弟たちにイスラムの教えが教えらている。神戸モスクはいまでもイスラム教徒のシンボルであり続けている。

昭和10年の時,モスクの前面に電線が見えるが,現在でも同じである。神戸市が観光客を呼び寄せるために景観を重視するなら,この電線は地下化したほうがいいと思われる。